無意味なテキストだけが人間だ

ヴラマンク, 「ドランの肖像」

ネットでテキストを書く上で理想にしているのは、意味のない、社会的に無価値な文章である。なぜなら、意味の剥奪は「語り」そのものを浮き彫りにするからだ。

評論は語りを知的な議論に変えてしまい、有益な情報提供はそれをツールに堕する。そうではない。そうではない。ネットで私は「言葉」を見たいのだ。「人」を読みたいのだ。私はテキストにそれだけを求めてきた。ネット語りとは自分を語ることではなかったのか。

ライフハックは空虚であり、まとめ記事は功利主義の尖兵だ。毎日5分続けるだけで見る見る上達する英会話勉強法なんてのは、月曜の朝に気だるげにやってくるゴミ収集車の後部にでも投げ捨ててやる。私がテキストに求めるのは人間そのものだ。

我々は「実用性」の奴隷である。誰も彼もが、自分が時間を費やすものに、多かれ少なかれ「価値」のようなものを求めている。実学という価値、ソーシャルな場での話題性、流行……そこで得られるのは充実ではなく情報だ。前面に出た「価値」に押しつぶされて、書き手の人間が埋没していく。

しかし人が「本当に本当の幸福」を感じるのは、社会的に無価値と見なされるようなことをしている時間くらいなのだ。それは人によってはテトリスであり、やおいであり、誇大妄想であり、あるいはスターの熱唱に合わせてヤクでもキメたかの如く頭部をぶん回すことだろう。楽しいことがたまたま無価値なんじゃない。無価値だからこそ楽しいものになれるのだ。社会的意義がある時点で、魂にとって既にマイナスなのだ。

だから「実用性」は虚しい。「実用性」には実用性がない。私は世界中をタンクローリーで暴走して、地平の果てにそびえ立つ無数の「実用性」を回収し尽くし、ウランと一緒に濃縮して弾頭に搭載した上で、地球を侵略しに来た邪智暴虐の宇宙人に向けて全弾発射し、やつらの悪辣な脳削り機械と一緒にメタクソにしてやる。そしてかの宇宙船が、核分裂の残酷過ぎる破壊力で踊るようにひしゃげていくそのマイクロ3秒間を、私は地上ですき家の牛丼でも食べながら、花火を見物するかのように眺めるだろうさ。それから木っ端微塵と虚空に消えた実用性どもに安堵して、心ゆくまで地上の無意味に埋没するのだ。

意味に屈するな。意味に屈するな。壊れた自転車で夜の街を疾走しろ。大通りを大声をあげて走り回れ。炊飯器で温められたケバブを臆面もなく売りつけるトルコ人にノーと言え。道端で横になっている酔っぱらいを蹴り飛ばせ。金をドブに捨てろ。人生を棒に振れ。

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投稿日時: 2019/12/25 ― 最終更新: 2020/07/13
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