大学に入学直後に受けなければならない健康診断というやつで、ヤバい人間に出遭ってしまったことを未だに覚えている。

健康診断といっても、身体には何ら異常はなかったのである。問題は、健康診断ツアーの終盤にあった「心のケア」みたいな項目である(3年以上前のことなので、どんな名前だったか不明)。他人がどんなことを聞かれたのか不明だが、そこでは一応「大学生活に不安や問題はないか」みたいなことを軽く1対1で話すことになっていた。

そこで私のプロフィールに目を通した相手の男とは、以下のようなやり取りが生じた。

「30歳で大学に入るんだ。大学は初めて?」
「あっ、はい。中卒なので学校自体がかなり久しぶりです」
「……ふーーーーーん」

相手は私と同じくらいの年齢の優男といった風貌であった。その彼が、私の返事を聞くなり、こちらを爬虫類のような眼をしてじーーーーーーーっと観始めたのである。顔は穏やかに笑っている。しかし、明らかに作られた笑顔である。

観察。あからさまな観察である。ニコニコと笑みを浮かべながら、この男は私を”Subject: A”として、モノとして観察している。しかもその視線に、笑顔を装ったその眼の奥に、何ら生物的な温かみとか、人間らしい慈しみといったものを感じなかったのである。

今までの人生で、これほど気味の悪い視線に真正面から晒されたことはない。私はゾゾッとしてしまった。男子のコケンに関わるので、あまり書きたくないが、正直この男と向かい合いたくない、とまで思った。

「へぇぇ、なるほど。大学生活で何か不安な点はある?」

私は確信した。この男、殺っている。

殺ってる、すなわち何者かをKillした経験がある。そうでなければ、あのような瞳を携えることなどできない。あれは、人の命を奪った者の眼。

私は大学の診察室で、俄に義憤に駆られた。許すまじ。私は、中庸を重んじる男である。目立たず、騒がず、他人にいるのかいないのか、忘れられてしまうようにひっそりと、しかし伸びやかに生きていきたい。そのように生きてきた私は、あのような気味悪い視線に晒されたことがない。私は吉良吉影のように平穏に生きているのだ。

「吉良吉影は殺人鬼じゃないか」というツッコミがあるかもしれないが、私は誰も殺ってないし、それどころかゴキブリを殺すときすら、心の中で南無阿弥陀仏を唱えて新聞を振り下ろしているのである。吉良も、人を殺さない限りにおいては模範的な男なのだ。

私はこの男に奪われた命の無念を想って勇気100倍、相手をキッと睨み返して、逆にこちらから相手を観察してやろうと考えた。

この男に殺された命は、いかなるものであったか。

まず十中八九、その犠牲者は女性である。このようなヒョロっとした優男風の書斎人が、己の内なる醜悪な欲望を発露しようと考えた時、まず間違いなく自分以上の弱者をターゲットにする。確定的だ。そして今まさに私を観察しているその生気のない瞳で、犠牲者の死の淵を、とくと観察したのである。つまり私が今睨み返している視線こそは、犠牲者の網膜に焼き付けられた最期の光景なのである。

犠牲者の名前は、たえ子。特にエビデンスはないが、なんとなく、たえ子だという気がする。私はイタコではないが、もしかしたら犠牲者たえ子の無念が私の耳に囁き、その名をここで知らしめているのかもしれない。

たえ子は無残に殺された。その殺害方法は、恐らく絞殺。あるいは水中に顔を押し付けられての溺死だったのかもしれない。これにも明確な理由がある。つまりこの殺人鬼のようなマニアック(狂人)は、相手がジタバタもがきながら、少しずつ身体から魂が抜けていく様子を、じっくり観察したいと考えるものなのだ。

私はたえ子の死の間際の恐怖を、苦しみを考えた。許すまじ。殺人犯許すまじ。しかも犠牲者はそれだけはあるまい。たえ子の他にいったい、何人の生命を奪ったというのだ。激情が顔に出たのか、眼前の連続殺人鬼は私の視線に、幾分かたじろいだようにも感じられた。

「大学生活の不安ですか。周囲も良さそうな人たちで、特にないですね」
「そうですか。それでは問診は以上です」

私は席を立ち、診察室を後にした。たえ子を忘れるな。Remember Taeko.

(この文章は筆者の被害妄想です。件の人は多分、フツーに良い人です。日曜日の今頃、家族でピクニックに出かけているかもしれません)

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投稿日時: 2019/10/27
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