私が周囲の10歳以上年下の大学生と付き合いを持って、やや辟易することの一つに、学生の大半が「青春」というやつに対して過剰な期待と信仰を抱いており、それを確保するために躍起になっていることである。多くの大学生が、目の前を通り過ぎていくアイドルに片腕を伸ばすように青春の後ろ髪をつかもうと必死になるが、青春なんてものは、そんな必死こいてもぎるようなものではないと思う。

大人たちは言う。

「青春というのは若いときにしかできない。だから今の時期に目一杯青春しなさい」

本当かよ?というのが正直な感想。青春の本来の素晴らしさって「止めどない情熱が駆け巡る充実の季節」ってことなんじゃないの?それは実は、打算じゃない本物の情熱を秘めている人ならいつでも体験できることであって、若者の特権ではないと思う。

青春は歳をとっても訪れる

いつかどっかのノーベル賞受賞者のおじいちゃんが、自分の研究内容を本当に楽しそうに語っていたが、私はこれを見て「あっ、このおじいちゃん『青春』しているなぁ」と思った。自分の中から溢れ出てくる純粋な情熱をなにかにぶつけていれば、人は50歳でも60歳でも青春できる。だから本来は「若いときじゃないと……」なんて焦る必要はない。

我が家の近所の90代のおばあちゃんなんて凄い。彼女は88歳くらいでピアノを始め、90を過ぎて初のコンサートまで開いたのである。こういう情熱を他の人は「今更」とか「どうせ……」という言葉で白けたがる。しかしそういう諦めの態度こそがまさに「青春」の対極たる「老い」なのであり、そんな白けはどこ吹く風で、己の生命の残り火にガソリンを注いで燃焼させまくる、無謀で、限界を認めないおばあちゃんの態度こそ、正しく青春なのである。

大学生たちの青春ごっこ

それに比べると、大学生が先を争うように押し寄せていく「青春運動」の方が、よほど紛い物だと思う。大学で繰り広げられている青春運動というのは、大半、青春の模造合戦である。

大学生のSNSとか学生団体のWebサイトとか見ていると、そういうのがいくらでもある。彼らはこぞって「個性的な仲間たちと一緒に、朝まで熱く語り合った」とか「次世代のリーダー」とか書き込み、SNSにみんなでジャンプした写真とか、手を重ね合った「いかにも青春」めいた瞬間を披露して共有したがる。

それで、実際にそういう輪に触れてみると分かるが、青春的ジェスチャーをこぞって共有したがる人間ほど、実際には白けていて空虚である。つまり彼らは青春が空回りしているからこそ「私の大学生活は輝いている」と力説して見せるのである。逆に本当の意味で情熱を燃やして青春している人間は、もうそれだけ充実しているから、わざわざ青春的ジェスチャーをしてみせる必要がないのだ。

学生団体はなぜ出会い系サークルと化すのか

青春を追い求める大学生は、常に焦っている。まあ人間というのはいつもどこか焦っているものだが、大学生の焦り方というのは尋常ではない。「何かすごくて尊敬されること」をしたいと切に願っているのに、でもそれを実現するための知識も、経験も、財力もコネもない大学生が焦って何をするかというと、例えばウッカリ「アフリカの貧しい子供たちのために学校を建てる!」とか宣言してしまう。

宣言というのは一種の利益の先取りみたいなものであり、それを真に受けた人からは「xxxx君って高い志を持ってるんだ」と前もって尊敬されるし(真に受ける人あんまいないけど)、自分の自尊心もある程度満たされた気になる。

ところが別に本人は「何かすごく尊敬されること」を成し遂げたいという下心の一心で先のような宣言をしたわけだから、本当に自分の人生を燃焼させる熱意もプランもあるわけではなく、それでいて宣言だけでちょっと満たされてしまったから、いわゆる意識高い系の学生団体の会合というのは、もっぱら男女がペチャクチャお喋りする場として消費され、団体の掲げる崇高なスローガンには誰も真の興味を示さず、そしてアフリカに学校は建たないのである。

青春ドラマの脚本家は「青春」したのか

彼らはドラマとか映画で誇張される「青春虚像」をトレースすることによって、「青春のアリバイ」とでも呼ぶべきものが手に入ると信じているし、人によっては青春虚像のトレースこそが青春そのものだと信じている。ドラマでどっかの高校生モデルが、土手で去りゆくイケメンの背中に「xxxx君、好きだー!」とか叫ぶシーンがずっと頭の中でリフレインしていて、そういうフィクションを自分の現実でも再演することによってかけがえのない瞬間が手に入ると考える。

要するにドラマの観過ぎなのだが、青春ドラマというのはむしろ、そのような青春の虚像を追い求め、そして挫折した人間による自己補填のような性格が強いわけであって(だって本当にそういう青春を送っていたとしたら、もう未練がなくて、年取ってからわざわざそういう脚本を書きたいと思わないでしょう)、つまり悲しいかな、結局ただの空想性の強いフィクションなのである。

だから青春ドラマを観て「死にたい」と思うのは早とちりだし、本当に死んだら死に損である。ちなみにこのような青春虚像へのあこがれの死を描いたアンチ青春映画が『レディーバード』(’18)である。特に女学生の皆さん、これは観る価値ありますよ。

青春を謳歌できないと敗けなのか

とにかく周りの学生からの「青春!」「私は輝いている!」というやかましいシャウトが乱れ飛ぶ学生生活では、青春に積極的に乗り出さないやつは根暗で社交性に乏しいオタクみたいな扱いを受けることがあるが、そんなのは余計なお世話だろう。

現代の学生たちは「さとり世代」などと呼ばれている。つまり山で毎日を平穏に中庸に、自分のやるべきことや趣味に囲まれて過ごしている仙人である。そんな人達が無理に市井に下って俗世間の喧騒にもみくちゃにされる必要はないはずだ。青春というのはライフスタイルの一形態に過ぎない。

「やりたいことがない」について

ところでこのような話をすると「それでも私は青春したい」とか「情熱を燃やせるものがない」という言葉が出てくる。それで私は「そういう考えが出てくるのなら、何も問題がないのでは?」と思う。

つまりそういう人たちは「情熱を燃焼させたいという情熱」を持ってるわけでしょう?ならその情熱を燃焼させて、愚かに見苦しく情熱を燃やす対象をどこまでも追い求めれば、その瞬間に命が激しく燃え盛るじゃないか。見苦しくて大いに結構。それがすなわち青春になる道理である。「人生の意味を見つけることが人生だ」と言った人もある。

以前、自分のやりたいことが分からずに何故かドバイに迷い込んでしまった青年の話を聞いたことがあるが、その青年はやることもなしに大金はたいてドバイに飛ぶという、意味不明かつ無謀な青春の探求を通して、実は誰よりも青春を経験していたのである。

最初に書いたように、情熱の燃焼というのは無駄・無謀・無思慮・無分別の「無い無いづくし」であって、真の青春というのは傍目にはみっともなくてダサいものだと思う。だからそろばん勘定してたら青春なんて永遠に訪れないし、上の方で何度も書いてきた、他人の目ばかり気にした打算まみれの青春アピールというのは、実際には本物の青春と正反対のものである。

他人の提示した青春虚像のトレースは青春にはなり得ない。何故なら青春とは、打算なしに、情熱のエンジンに駆られて道を踏み外すアバンギャルドであり、必然的にその人固有のものになるはずだからである。つまり青春に典型はあり得ない。あえて言えば、見苦しく猛進することが青春である。

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投稿日時: 2019/09/19 ― 最終更新: 2019/10/21
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