結論から言えば「好きに観ればいいのでは」という、極めてフツーの意見に着地するのだが、これは学習のエネルギー溢れている時期の愛好家やマニアにとって、結構悩ましい問題である。作品をデタラメ順に鑑賞すると、その作家の歴史の追体験の機会を永遠に逃したような気分になるのだ。

ただ私はそもそも「作家の歴史」というやつを、いつも疑わしい目で見ている。「本当にそんなもの存在するのか?」と思ってしまうのである。

よく美術館のパネルに掲げてある画家の作風変遷とか「この作家は最初はこういう信念で書いていたが、ある時期こういう問題にぶつかって、中期の作風に変わったのだ」といった解説とか。ああいうのはあくまで作家史の二次創作みたいなものに過ぎないだろう。なぜなら他人の歴史というものが、そんな表面上の作品の変化とか、数本のインタビュー記事とかで概観できるような、単純なものであるはずがないからだ。

取り分け他人のこさえた、学術書やWikipediaに載っているような「分かりやすい歴史」というやつには、眉に唾を二重三重につけて、邪気を遠ざけながら接さねばならない。「分かりやすい」ということは、分かりやすい形に収まるように都合よく歪められ、省略されているということである。

そもそも作風変遷というものが、線的に直進変化していくかどうかも疑わしい。筆のタッチのような技術的な部分に関しては、時間の流れに呼応した連続性を見出すこともできるだろうが、作風なんてその時の状況や立場によって結構ランダムに変わったり先祖返りを起こすものだと思う。ピカソなんて、そういう時間的なグラデーション変化の人物論を全然受け付けない画家で「この人は多重人格?」と思えたりもする。

「この作家がこの時期に書いたこの作品」みたいに、作品と時期を1対1に対応させて考えることは有意義だと思うが、複数の作品に線的な連続性を見出すことは容易ではない。そうなったとき、人は作風変遷という「ストーリー」を生み出して、その「ストーリー」に適合するような作品解釈をしがちになる。そういうのは不自由な解釈だと思うし、ともすれば作家を追いかけるために作品に接する状態に陥るだろう。

そういうわけで、私は作品をバラバラに観て後からまとめても、そんなに失うものはないんじゃないかと思うのである。

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投稿日時: 2019/09/29
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