インターネットの普及で意見が多様化しているかというと、私の所感ではそれは全く逆で、意見は平均化している。つまりどこそこの人が「この作品はここが優れているんだ」と語ったことが影響力を持つと、その解釈をみんなが信じるようになって、似たような、影響を受けた論説を皆が紡ぐようになる。

これは昔から評論の世界に見られた現象だが、ネットの普及でこの傾向が非常に強まり、SNSやニュースサイトを通じて、過去には考えられなかった規模で、1つの意見が拡散されるようになった。またエンターテイメントが溢れる現代では、一々ある作品の解釈に拘泥したくないので、手っ取り早く作品解釈の「答え」を提示してくれるこれらの意見は重宝されるようになった。

こうして多くの人が、借り物の言葉を、自分の口を通して発するようになった。「他人の意見」は非常に便利な道具である。だってそれを借りて納得すれば、得心が行った気になれるし、雑談でもスムーズに話すことができるのだから。

それで、人間というのは情報の起源を忘れてしまう生物だから、時間が経つにつれて、それがあたかも「私が自分で考えた私の意見」であるかのように思えてくる。これが厄介で、いつの間にか「他人の意見」と「私の意見」が融合し「我々の意見」として平均値に収束していく。

それは必ずしも悪いことではない。しかし多様性の欠乏の先では、いつでも死が口を開けて待っている。極端なことを言えば、ある解釈をみんなが真似するなら、そのオリジナルの意見が1つだけ存在すればいい。他は全部コピーなのだから。テレビでテンプレ的なことしか言わないコメンテーターと一緒。そこに自分固有の感性なんてない。自分の感性がないということは、自分がわざわざ何かを言う必要はないということ。

いつの間にか意見とは「考える」ものではなく、何人かの大家が用意してくれたものの中から「選択する」ものになってしまった。そんなモノトーンの世界を見たとき、素直に「つまらないな」と思う。

作品について語るとき、できるだけ自分の言葉と感性で語りたいと思っているし、それが通説と全然違う意見だったとき「こいつは何言ってるんだ?」と思われるかもしれない。それは仕方ない。私が作品に求めているものや、それを観る視線は、他人とは異なるのが当たり前なのだから。

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ある絵画の解説本で「名画には、ある定まった鑑賞法というのが存在するのです」と、さも当たり前のように語っていたものがあった。

違います。

「定まった鑑賞法」とは、まさに「他人の意見」そのものである。ある鑑賞法が当然の前提とされるとき、それとは異なるユニークな鑑賞法が無条件に否定されていることになる。それは他人の価値観の否定に他ならない。

その人の中で「この作品は、自分にとってはこういうものだ!」という確固たる解釈が定まっていれば、他の70億人がそれを否定したからといって覆ることはないし、そういう意見はむしろ貴重なので大切にした方がいい。

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ついさっきネットで、また面白い評論サイトを見つけてしまった。その人はサイトの作りも文章も全然こなれてない感じで、いかにもネット初心者という感じなのだが、他人の視線とか通説とかを全然気にせずに、思うがままに、自分の言葉で伸び伸びと文を書いているのが印象的だった。権威に媚びず、その人の前では巨匠も新人も、名作も凡作もみな平等である。ある意味、好き放題に書いていた。

語りの豊かさというものは、こういったアマチュアリズムにこそ眠っているのだと思う。

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投稿日時: 2019/09/29 ― 最終更新: 2019/10/11
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