あぁ、寝る。私はもう、寝る。絶対に今日中には、起きない。

先程、Webサイトのちょっとした更新作業を終えたのである。「ちょっとした」と謙遜してみせたが、HTMLの変更というのは、これは傍目には見抜けないくらいの想像を絶する面倒臭さなので、私の現在のMP残量は0.3くらいであり、つまりくたばる寸前である。断言しよう。今ならドラキーだって私をぶちのめせる。

しかし、くたばる寸前の人間のテキストというのは貴重なのである。何故ならくたばる寸前の人間は、キーボードなど叩かず、素直にそのままくたばるからである。くたばる寸前で労働をしているこの貴重な心持ちを、いま少しばかりテキストに遺してみよう。

ここでなぜサイトの更新が、かくも面倒くさく、世のWebマスターたちが「今度直します」と100回くらい言い訳しながらソリティアに興じているのかを説明してみる。まずHTMLで覚えるべきことというのは、20年前より肥大化している。これは前回話した通りである。そしてこれが厄介なことなのだが、Webサイト作成者は、下手な知恵の輪よりもこんがらがって難文・悪文化した自分のWebコーディングの規則や意図を記憶しておかねばならない。この記憶と想起の手間が、既に出来上がったものに手を付けることを異常に面倒にする。「プログラムは下手に引き継ぐより、フルスクラッチで作り直す方がむしろ容易い」という言葉を聞いたことがあるかもしれない。そして半年前に自分がカタカタ打ったコードというものは、まさにこの「他人のモノ」に匹敵するのである。

あぁ駄目だ。もう起きていられない。よく見れば、朝日が昇っているじゃないか。あと5秒で、私はくたばる。5……4……3……

私は本当に疲労困憊の身体でこのテキストを打っているのである!つまりこれは、ライヴなのである。ライヴ・テキスト。ところで私は、究極のコンテンツとは即興だと信じている。「とことんまで推敲したり、練り込んだものが究極のコンテンツだ」と考える人が多いが、私の考えではそれは間違いだ。ライヴのコンテンツには、やはりライヴならではの勢いが宿るものである。それは決して何日も寝かせたり、繰り返し書き直しては得られないものなのだ。実は文豪の遺した代表作品などもその類である。夏目漱石は『坊っちゃん』を夜中の区別なく電光石火で書き上げたというし、太宰治の『駈込み訴え』は、その名の通り駆け込んだ切迫感を出すべく、口述筆記にて一気呵成に完成させたのだという。他にはビートルズの”Please Please Me”なども、短期間の勢いのままに完成させたアルバムだ。ことほどさように、ヴィヴィッドなる勢いの中にこそクオリティが宿るのである。

私はもう寝たい。しかしここまで勢いだけで書いてから気付いたが、「サイトのどこをどう変えたのか」という当初書こうとしていた内容を書くのを忘れていた。しかしまあ、そんなことはいい。こんな閑散としたサイトで、そんな話に耳を傾ける人はいないのだから。えぇっと、記事の一覧表示をちょっとばかしオシャレな感じにした。いじょう。ああ、もう私は、へんかんするためキーをたたくのが、おっくうなのだ。ひらがな、ひらがなばかりになっていく。いまきづいたが、これは初代ばいおはざーどで、しだいしだいにゾンビへとへんぼうしていったにんげんの遺したにっきのようではないか。かれはつぎつぎにことばを忘れ、さいごは味覚とかゆみだけしか記憶にのこらないぞんびとかしてしまうのである。かんがえてみると、疲労困憊のにんげんはぞんびみたいなものである。ああそれともこれはあれかな。あるじゃーのんにはなたばをの最後のしーんににているかな。ちゃーりいはことばをわすれて、さいごはひらがなばかりになってしまうのである。わたしもちかれてちせいを失ってしまっているのだ。いまなら小学生にもさんすうしょうぶでかてないかもしれない。

ああもうむり。ねる。ねる。コレ以上は武利。おやすみ為さい。

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投稿日時: 2019/09/14
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