私はほら話が好きである。このサイトでもたまにほら話を書いているが、その時は「ほら話でした」と明かしたり、タグの部分に「ショートショート」などとつけて、なるべく紛らわしくないようにしている。ほら話は、自分でするよりは他人のものを聞かされるのが好きである。

ほら話の豊かさは、その伸びやかで鷹揚な態度にある。ほら話にはギラギラしたところや、ケチな下心が存在しない。これが虚栄心から出る嘘話などとは決定的に違う。私の定義では、そのような嘘はハッタリとかデタラメと呼ぶべきものである。

でっち上げられた見栄っ張りの嘘は、嘘であることを隠そうとするから貧困だ。そういった嘘は、嘘であることが露呈した瞬間に価値が0になってしまうので、嘘を嘘であると見抜かれないところに最大の効用がある。このようなデタラメは、骨董品の贋物のようにギラギラした嫌らしさがあるから、その内容にちっとも愉快なところがない。

一方のほら話はむしろ、嘘を嘘であると、最終的には見破られるように巧妙に語る。そうして嘘と現実の境界線上を、酔っぱらいのようにフラフラしながら、嘘かな?真かな?と口笛を吹きながら、その曖昧性、「嘘くさい。でももしかしたら……!」という図々しいリアリティを愉しむのである。そうして最終的には、嘘を嘘であると見破られるところに最大の効用をもってくる。「なぁんちゃって!」「またまた!」とガハハハと笑って終われば、そのほら話は大抵成功している。逆に見破られないほら話、そんなものはただの大惨事である。

ほら話は何にもならない。人の知識を増やしもしないし、その場限りで消えていくお祭りだ。しかし何にもならないからこそ、むしろ人はとことんまで創造と、語りを愉しむことそのものに集中できるのである。

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投稿日時: 2019/08/17 ― 最終更新: 2019/09/14
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