ネット上でごく少数ながら、昔から一定数存在するのが、ある作品の断定できない描写の解釈について、何故か自信満々で「ここには確定された意味があり、私はそれを知っている」と言って憚らない人たちである。

ここで「それはおまえのことだろう?」と思った人がいるかもしれないが、私がキッパリした口調で解釈について書くことが多いのは、それは単に文体というやつで、一々「~と私は考えるが、それは私の個人的見解に過ぎないので誤解なきよう」などと書くと長ったらしいので「~である」「~なのだ」と省略しているだけである(あ、また書いた)。そういうものは「解釈を解釈する際の共通了解」に含まれるべきだと思っているし、そうでないと議論や評論なんていうのは、単なる罵り合いと髪の毛の掴み合いに終わってしまうわけで(まあ、そうなることは往々にしてあるけど)。

ところが世の中には、作品内には決して明示的に示されていない事柄に関して、モーセのように確信に満ちた様子で語り、それ以外の解釈の一切を誤りと断ずる不思議な人たちが存在するのである。たまに見るでしょう?「Aの箇所って、Bって意味なんですけどねぇ……なんでみんなには、それが分からないかね?ヤレヤレ」みたいなことを、ホンキで書いている人たち。

「この人たちが分からない」というのは皮肉でも何でもなくて、私は文字通り理解に苦しむのである。それほどの自信が、自分と異なる解釈を見ることの不快感から引き起こされるのか、あるいはこういう人たちが、常に自分の意見に100%の確信を持つ底なしの自信家なのかが分からない。

そもそも「答え」が示されていない、作者すら意味を確定させてないかもしれない箇所について、自分の意見を絶対とするのもどういう神経かと思うが、それとはまた別の次元で「物語の意味の断定」には問題がある。

何故作者は自分の物語の意図を把握できないのか

古典的で素朴な批評理論では、作品というのは作家の作り物なのだから、あらゆる箇所には人為的な意図が込められているはずで、「作品を論じる」という行為は、作者が作品に込めた「正解」を探り出す行為である、と考えられた。ところが20世紀にロラン・バルトなどによって議論された、物語の解釈を巡る重要な考えが「作者によって一意に定められた“始原の意図”など存在しない」ということである(「テクスト論」という)。

何故なら物語というものは、常に言語の「引用」によって表現されるから。そして言語による伝達は不完全なもので、不確定で、読む瞬間に初めて(その人の中で)意味が収束するから。無数の引用によって作られた作品に対する作者本人による物語解釈も、解釈のバリエーションの1つに過ぎない。(「作品論=この作品にはこういう意図が込められてる!論」への批判)

意識の限界

物語の意味確定の困難には、言語的な制約だけでなく、意識的な問題も存在する。

自分で少しでも創作をしてみれば分かるが(上手い下手は問わない)、実のところ作者は自分の作品についてすら、分かっていない部分が多いのである。そもそも人間という生き物は、意識して行う動作というのは全体のほんの一部で、大部分を無意識に処理しているし、自分が自覚的にやったと思うことすら、後々考えてみると無意識に支配されていたと感じることが多い。ある人のやることに強く反対して、あれこれ理屈をつけていたとしても、振り返ってみると「単に私はあの人のことが嫌いで、批判するために適当な理屈が必要だったんだ」と気づくこともある。他人と話しているときに背中をボリボリかいたり、足を頻繁に組み直している様子を見て「なんでそんなことしてるの?」と聞かれても「分からない」としか答えられない。それについてあれこれ心理学的な解釈などを後付で適用することはできても、実のところ不明なのである。同様に、作者が綴った事柄に対し、作者がどれだけ意識的であったかは明確でないのである。(「作家論的アプローチ=この作家にはこういう思想・言動があるから、ここはこういう意味!」への批判)

また例えば夢の中で起きる出来事は、自分の脳内で完結しているはずなのだから、全て自作自演ということになるが、目覚めてみると、夢の中の自分の言動も、物事の展開も、自分の理解を超えていることが多い。それらは自分の無意識の願望の現れかもしれないし、あるいは単に過去の記憶や外部の雑音が混じって、一見ランダムな結果を生み出しているのかもしれない。そういう意識と無意識の混濁が「キャラが動く」という現象を生じさせるのだと思う。

作品と作者はかなりの部分、別物であるはずだ。少なくとも「作者は全部知っている」「全てに意図がある」という原理主義的な考えは、今日では無理がある。大まかな意図というものは常に存在するだろうが、描写について細かく聞かれると、作者でも何故そう書かなければならなかったのかが分からない。ある行為を作品内で行った人物は誰か、のような、客観的な事実の支配権が作者に握られているとしても。であるから、最初に書いた 「ここには確定された意味があり、私はそれを知っている」という主張は、ちょっと「こっ恥ずかしい宣言」なのである。

井上陽水とかが自分の歌詞の解釈を聞かされて「そんな意味があったんだ。ふ~ん」みたいに言うのは、別に皮肉ってわけではないと思うし、『ドラゴンボール』の異常に緻密でマニアックな解釈に対し「鳥山はそこまで考えてないよ」と言われても、そんなわけであまり気にする必要はないのである。解釈というのは、要するに作品の内臓の解剖を試みる行為なわけだから。

とは言え、現在でも「作者は作品の神であり、解釈について絶対的なポジションにいる」という考えは根強いし、作者によっても作品への介入度は異なるだろう。勝手な解釈が行き過ぎると、それは「創造的誤読」などと揶揄(称賛?)されることにはなる。 芥川龍之介が『侏儒の言葉』の中で「作者が死ぬと、作品を自由に論じられて良い」みたいに言っていたのは、現在でも真理である(あっ、そうか。だから芥川って人は……)

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投稿日時: 2019/08/17 ― 最終更新: 2019/09/14
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