トークイベントとか説法とかTVとかで、しばしば「あなたは幸福だと思いますか。そう思う方は手を挙げてください」みたいに聴衆に質問する場面がある。実際にこういう場面に自分が立たされたことはないのだが、私なら必ず同じ場面で「ノーコメント」と答えるだろうと思う。

なぜそうするのか。まず思うのは、こういう類の質問をする人間と私とで「幸福」という言葉の定義や認識が、確実にズレているであろうということだ。

まず「幸福」なるものは、非常に移ろいやすい。この瞬間に「幸福」でも、5秒後に「幸福」でないかもしれない。また「幸福」と「不幸」は常に混在しており、人はいつもある面では「幸福」であり、ある面では「不幸」である。その勢力図が明らかに傾いている瞬間、例えば私が好きな映画や音楽を鑑賞しているときは気軽に「いやー、シアワセっす」と答えられもしようが、道を歩いているときに尋ねられても「ウーン」となってしまう。またある時点での「幸福」が、後になって「不幸」であったと感じられるのはよくあることだ。

人生というのはその瞬間瞬間が全てであり断片なのだから、「あなた、シアワセですか?」という質問は「大げさ」あるいは「浅はか」な気がするのだ。要するに質問が悪い。「幸福」というのは刹那ではなく、トータルで長期的で、「幸福」の定義それ自体が変化していくものだから……。上記のような質問をする人は多分、もっと「幸福」を単純な概念と捉えており――少なくとも、質問されてイエス・ノーで答えられる程度には単純――そういう人に対して答えを返せば、どのような答えにせよ確実に誤解される、齟齬が生じるのは明白である。だから私は「ノーコメント」と答えるしかない。

私は日常で使われる「幸福」という単語は「満足」という、もっと刹那的な表現に置き換えた方がしっくり来ると考えている。これは18世紀の思想家ルソーが遺した考察なのである。晩年の絶筆『孤独な散歩者の夢想』の中で、ルソーは「幸福(heureux)」と「満足(content)」を分けて考えていた。彼は「幸福」とは本来永続的な状態を指すのであり、それはこの地上で実現されることはないと考え、一般に「幸福」と信じられる状態は「満足」であると「第九の散歩」冒頭で述べている。

J’ai peu vu d’hommes heureux, peut-être point; mais j’ai souvent vu des coeurs contents,

(幸福な人というのは滅多に、というか多分全く見かけないが、満足している人ならしばしば目にする)

ルソー『孤独な散歩者の夢想』

それと私が問題だと思うのは、こういう質問はパブリックな場でするには、あまりにもプライベートな領域に属すということである。新婚カップルとかが「わたし、シアワセでーす」と浮かれて首を縦に往復させるならまあ、微笑ましい気がするが、仮に自分を「不幸」だと信じる人がいても、その場で「皆さん、私は『不幸』な人生を送っているのです」と表明するものだろうか。

自分でも面倒な思考をしていると思う。DIOにスタンドの強弱を尋ねたプッチ神父も、DIOの返答に「メンドクセーやつだな」と思ったに違いないのである。

「どんな者だろうと人にはそれぞれ、その個性にあった適材適所がある。王には王の…… 料理人には料理人の…… それが生きるという事だ。スタンドも同様。『強い』『弱い』の概念はない」

「質問が悪かった…… 子供が遊びで話す『スタローンとジャン・クロード・バンダムはどっちが強い?』 そのレベルでいいよ」

荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』

私のような面倒なやつに相対した際にも「最近結構満足いってるかどうか、そのレベルでいいよ」と言ってやってほしい。

テキスト系記事の一覧

LINEで送る
Pocket

投稿日時: 2019/08/13
同じテーマの記事を探す