私は教室を出ていくことに決めた。だって退屈だったんだもの。

5月の法文1号館 113教室はもう結構生暖かくて、あんまり退屈な授業だと眠りこけそうだったのだけど、さりとて出席を求められる授業だから欠席するわけにもいかず、仕方なく教授の話は聞き流してチェーホフを読んだり、窓の外の新緑を眺めて、時間を有意義に殺していた。が、そろそろ限界という気がしてきたのである。他大学からやってきた教授は外来だからか、どこまでルーズにしていいか分からず、その大学の規則を律儀に守る人が多い(そんなのは紙面上の建前なのにね)。これは学生と講師の双方にとって損な話で、学生は聴いてもいない講義に出席して時間を無駄にしなければならないし、教授から見れば、やる気のないやつが寝てたり内職したりしていて良い気がしない。

私は教授が黒板の方を振り向いた隙に猛スピードで、しかし軽やかにドアまでダッシュして教室を出る。教授が振り返っても、私の残像が残っているので、彼は私が消失したことに気が付かない。残像、すなわちそこに在るはずだと信じ込む教授が、彼の心の中に描く形象<フィギュール>。

そうして法文1号館から並木道の方に飛び出したが、さりとて特別にやることがあるわけではないのだ。というか時間の使い方としては、むしろ聴いてない授業の隙を盗んでせっせと本でも読んだ方が集中できるもので、こうして野放しになってしまうと開放感から、かえって「何でもできるなぁ」「この時間をどう活かそう」と考えて、ぶらぶら散歩でもしながら、時間が散漫に溶けてしまうものである。

でも私はそうした時間の空費をむしろ愉しんでいるのだ。何かをたっぷり手に入れたときの、最も贅沢な消費の仕方を知ってるかい?それは花咲かじいさんが灰をまくときのように無造作に、手に入れたものをばら撒いて捨ててしまうことなのだ。そうすることによって、所有したものに所有されない自由をありありと実感できるのだ。

というわけで私はせっかく手に入れた時間を、講堂の前の芝生をゴロゴロして日向ぼっこしたり、構内の池を泳ぐ鯉たちをのんびり眺めたりして、「無為に消費する」という最も贅沢な形で費やしたのである。

そうして30分くらい過ぎた頃だろうか。私は腹が減ってきたので蕎麦を食べることにしたのだが、ここで妙案を思いついたのだ。そうだ、教室が1階にあるのだから、授業を退屈そうに聴講している同胞たちを借景にして蕎麦を食べよう。それだとインスタント蕎麦を食べることになってしまうが、どうせ学食の蕎麦はインスタント・レベルの味なのだから、大して違いはしない。私はこういう無益な遊びが大好きな質なので、早速購買部へ行って蕎麦にお湯を入れ、大急ぎで教室が見える場所に移動し腰を下ろしたのだ。その蕎麦の美味かったこと!みんな、みんな大変だね!これは要するに禁じられた遊びなのだ。何でもない時間に散歩して、適当に蕎麦を食っても、この豊かさはそう味わえるものではないよ。

このように実に有意義な時間を過ごした私は、出席カードを提出するために、再び教室に帰ることにした。出てきたときと同じように、教授に気付かれないようにサッと席に戻る時、後方の席にいた知り合いと眼が合った。

「(教室にいたんじゃないのか?)」
「(残像だ……)」

こうして私はヌケヌケと出席の既成事実化に成功し、その日も悠々と教室を後にしたのである。

なおレポートの提出期限を勘違いしていたので出し損ねてしまい、この授業の単位はこなかった。

テキスト系記事の一覧

LINEで送る
Pocket

投稿日時: 2019/08/13 ― 最終更新: 2019/08/15
同じテーマの記事を探す