テキストは、何よりもまず自由な文字による表現である。テキストによって表現される題材に、束縛などありはしない。今日観た映画に明日の予定、昨日の献立から来年のデート、思いつきの小説からくだらない小咄まで、テキストはあらゆる題材を語り得る。語り口も多種多様で、散文に詩文、短評・講評・感想・追想ときて、寝言・戯言・虚言・妄言まで何でもござれだ。

しかしながら現実には、世に出るテキストの多くは型にハマりたがる。そうして、ほとんどのテキストが何らかの典型的なカテゴリーに属す。それはテキストに限界があるからではない。書き手の認識に限界があるからだ。

つまり、書き手の中でテキスト化可能な題材というものがある程度決まっていて、決まっていると思い込んでいて、日々の生活の中から、自分の守備範囲にある出来事のみがテキストとして表現されるのである。実は形式にも思い込みがある。1000文字以上書かなければ1つのテキストにならないとか、読み手の利益に与しなければならない、とかである。

ところが本来、テキストはどこまでも自由なものなのだ。通勤時間帯に駅のホームを猛然と疾走していたサラリーマンに関する誇大妄想や、町中でケバブを売っていたトルコ人のあられもない文化的風習に関する議論など、テキストはあらゆるテーマを扱い得るし、またあらゆる人があらゆることに関してテキストを書き得る。

その道に通じた人でなければテキストを書けないと考えるのは誤りである。主婦が手抜き料理を熱心に語り、上京したての大学生がカップ麺の日記をつけるように、素人には素人の視点と筆がある。味について評論してもいいし、新しくなったパックのイラストが気に入らないと吐いてもいい。ことほどさように、書き手にとって題材化できない題材などというものはなく、ただ自分が語れることを認識できていないだけに過ぎない。

テキストは形式からも自由である。テキストはたった一段落からも構成され得る。いやたった一行、たった一単語でもテキストになる。究極的には、一文字。それも立派なテキストである。考えてみれば、人はSNSでの「つぶやき」だと、かなり自由にテキストを作れる。ここでは短いテキストは不完全だという思い込みが取り払われているからである。

実はこの地上で最も自由なテキストが投稿されている現場は匿名掲示板である。匿名掲示板は常に、一回こっきりの創作であり、己の立場という制限が取り払われているから、人はどこまでも自由に語ることができる。本来テキストは、あれくらい自由でいいものだ。匿名掲示板には、テキストを日々打ち込む人間が見習うべき創作姿勢の原点がある。

書きたくないことを書いたテキストなど、息が詰まる。そのテキストは死んでいる。テキストは、何よりも自由を求める鳥だから、自由の空気がなければ朽ちてゆく。あらゆるしがらみを捨ててしまえと西沢が言った。どこまでも囚われないのがテキストだ。

テキストが自由なのは、人間の人生が元来無目的であることと、本質的には同一である。テキストは役に立ってもいいし、役に立たなくてもいい。爽快であってもいいし不快であってもいい。意味が分かっても分からなくてもいい。ただ書き手が自在に綴り、読み手が思い思いに解釈するだけだ。テキストをしたためる楽しみとは、自由であることそのものを噛みしめる快楽であると言ってもいい。自由な思想・発想を楽しむ中から、テキストが自然と浮かび上がる。

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投稿日時: 2019/08/07 ― 最終更新: 2019/09/29
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