投稿日時:2019/03/14 ― 最終更新:2019/04/13

いつからかこんな疑惑がある。私は、『スイミー』の巨大な魚なのではないかという疑惑である。

『スイミー』は有名な絵本であるから、いまさら説明も不要と思うが、小さな魚が寄り集まって一匹の巨大な魚に擬態し、捕食者であるマグロを驚愕せしめ、退散させる勇気のお話である。スイミーはただ一匹だけ色が黒い魚であり、黒いから、巨大生物の黒目の役割をただ一匹担うのである。

大勇の魚たちが演じた巨大魚は、魚の群れが寄り集まった一瞬しか存在しない幻である。魚たちの緊張と協調がほぐれれば自ずと霧消する。しかしどういうわけか魚たちが同期を続ければ、1秒、2秒……と、幻の魚は延命できるかもしれない。そしてその魚たちの同期が続く限り、確かに錯覚の巨大魚はそこに存在し、生きているように思われるのである。

いや、そんなはずはない。その巨大魚には脳がない。内臓がない。もっと言えば、それ固有の意識とか魂というものが存在するはずがない。オーケストラがいくら華麗に協調していても、協調の熱烈の内に楽団の意識というものが浮かび上がり、団員の口を借りて「私は楽団集合意識の某と申す者」とか喋りださないのと同様である。巨大魚は束の間の幻影に過ぎない。私も昔はそのように考えていた。

しかしよくよく考えてみれば、人体の構造というのも、この幻の魚の構造に酷似してはいないか。私の細胞のどれ1つとして、それが独立して存在していないものはない。脳という重要器官にしても、1つ1つの細胞が、魚が尾びれを振る程度の単純運動を繰り返し、果てしない信号リレーによって複雑な動きを見せているだけである。つまり、スイミーの巨大魚の超複雑版に過ぎないのだ。ここまでくると、腸内細菌と我が細胞の区別も、いよいよ怪しい。私という見せかけは、体内に住まうあらゆる存在の協調によって保たれているから、外部から取り込んだ成分を全体にとって都合よく作り替えた細胞と、体内に生息する細菌を区別する必然性もないように思われる。働きの上ではどちらも等しく重要であり、その働きも似ている。

こう考えると、スイミーの巨大魚はそれを構成する細胞(=小さな魚)の数が少なく動きが単純なので、意識が「薄い」だけであって、論理的には魚が数十億匹も集合して、脳のようにそれぞれの魚が協調して振る舞えば、そこに個々の魚とは別の「濃厚な意識」が浮上するはずなのである。

***

いつからかこんな疑惑がある。私が自分がスイミーであると完全に了解し、いやスイミーであることを思い出し、自分の意識というものが完全なる幻であると100%疑いなく認識した瞬間、私の全細胞たちも百年の催眠から覚めたようにハッとし、勝手に独り立ちを始め、私の身体はドライヤーを浴びせられたアイスみたいにダラダラと溶け始め、私という存在が崩壊してしまうのではないかという疑惑である。それはまるで、スクリーンの幕が降りて明るくなった途端に、観客達が急に現実に帰って感想を言い合いながら、劇場から蜘蛛の子を散らすように四散していくようなものである。

いや、そこまでホラーめいたことが起こらなくとも、スイミーの事実に気づいた途端、全体運動によって保持されていた意識が消失し、大路を叫びながら走り回るアニマルになってしまうのではないかという恐れもある。数年前、上野公園を叫びながら何周も走り回る人を見かけたが、案外彼のような人物は大層な哲学者か宗教家で、このような意識の真実に到達してしまった大先輩かもしれないのだ。ニーチェは、やはり卓抜の哲学者だったのである。

だから私は、このような疑惑が深まってくると「いかん、いかん」と首を振って否定し、それ以上深入りしないように注意している。思索を深めることが、必ずしも私という意識存在にプラスに働くとは限らない。こういうときは、カロリーにも塩分にも無遠慮に食いたいものを無心に食って、動物的満足感の中で思索を忘却するに限る。つまり私は、アニマルになりたくないから、自ら積極的にアニマルと化して、引き返せるところで引き返してくるのだ。

皆さん、私のような哀しい思弁家を増やさないためにも『スイミー』を禁書にしましょう。

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