昔ながらのマンガ喫茶というものが好きである。液晶画面も個室もない、時代に取り残された、頑固一途の読書空間である。見た目からして少しくたびれている。古びていて、入口のメニューの作りがちょっと不格好で、同時にほっとするような安心感がある。これだけ垢抜けしない場なら、席を選べぬほど混雑する時間帯などないだろうから、悠々と居座れるだろうという、現実主義のチャッカリズムも手伝って店に入る。

そもそも私は、仕事での利用を除き、混雑した喫茶店には立ち寄らない。入る値打ちを感じない。都会の森林である喫茶店は、少なくとも空席率三割は維持されていてほしい。全ての席が埋められるために存在すべきではないと、私は思う。選べる自由、少し肘を伸ばせる自由、多弁のマダム一行から距離を取る自由、店に気を使ってそそくさと退散しなくていい自由。くつろぎの奥行きといったものが、喫茶店には必要だ。まばらに空いたオープンスペースこそが、伝統的マンガ喫茶の美徳であり、個室時代のネットカフェがついに獲得し得ないものである。

オープンスペースの美点は、公共空間の共有による開放感の確保、同じマンガ読み同士の、無言にしてゆるやかな連帯意識にある。言葉一つ交わさずとも、どかっと座り込んで頁を繰る音を響かせ合うだけの繋がり。大の大人たちが、黙々と読書に勤しむあの空間に、不思議な安心感があるのだ。

この話をするときに毎回思い出すのが、シャーロック・ホームズの兄であるマイクロフトが創設・所属している「ディオゲネス・クラブ」である。人付き合いを避けるマイクロフトが作ったこのクラブは、会員同士の会話が応接間以外では禁止されている、人嫌い同士の奇妙な寄り合いである。人と話すのが嫌なのに、何故集まるのか、おかしな気もするが、子供のときの私はこの話を読んで、その素敵クラブへの入会をさえ願った。マンガ喫茶は、私にとってのディオゲネス・クラブなのだ。

***

昨年11月に、母と名古屋へ寄った。この土地に全く詳しくない私は、栄の地下空間を無目的にふらふらと歩いていたのだが、構内に妙に背の低い空間があって、その場所だけ時間が昭和で停滞しているような、そんな古びた回廊であった。不思議の国に入った気分で、天井が近いのを気にしながらヒョコヒョコ歩いていると、古風なマンガ喫茶にばったり出くわした。

私はもう、その佇まいを見るだけで、ゾクゾクしてしまったのである。まさに私が懐古するマンガ喫茶そのものの風格で、密林の中にエルドラドを発見した心地がした。その後、もう少し周辺をフラフラした後、私は母と駅で落ち合う約束をしてなんとか単独時間を確保し、素知らぬ顔で、猛然とこの喫茶へ突撃したのである。

「北山」という喫茶店だった。この喫茶店、空間に対して蔵書数があまりにも多いため、テーブルで塞がっている棚にまでマンガが敷き詰められている。すなわち、もし客の座る席の奥にあるマンガを読みたければ、一声かけなければならない。この力技の作りに、逆にシビれた。料金はドリンク付きの時間制で、コーヒーを頼んで90分コースをお願いした。まさに喫茶店と読書空間が一体となっている。

ソファに腰をおろすと、時間の感覚が変わる。ゆっくりと立ち上がって、店内の蔵書を物色する時間がたまらない。何か特定の本を読みたかったわけではないが、無作為とも言える適当さで、浦沢直樹の『ビリーバット』を3冊ほど手にとって席に戻る。

他の客にちらりと視線をよこすと、背広を脱いだサラリーマンのような中年男性が一心にマンガを読んでいる。時刻は既に昼の2時を廻っている。昼過ぎに、マンガを一心に読むサラリーマン。あのサラリーマンこそ、このマンガ喫茶に欠かせないものだ。ほら、ほら、彼がこの空間の豊かさの象徴だ。分かってもらえるだろうか。あのサラリーマンこそが……

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投稿日時: 2019/02/11 ― 最終更新: 2019/09/15
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