時間の編集

2022/01/14 ・ 雑記 ・ By 秋山俊

買ってきたモノを持ち帰って、そのまま一切を消費する、というのはなんだか清々しいものだ。その時まさに必要なものを買い、そのまま没頭して、求めた分だけ消費しきること。

この理想はあらゆるものに適用できる。食料、本、映画、ゲーム……なんとなれば現代社会では、保存技術が極度に進化し、猫にも杓子にも不老不死の秘術である「冷凍」が施され、本は黄ばまず、フィルムは傷まず、金属フレームの中に永遠に格納され、いつでも引き出すことができ、あらゆるものは二束三文で売り飛ばされ、棚の中はいつも未消化のものでいっぱいになっているからだ。

「冷凍」という悪習は、物欲を鎮める麻薬のようで断ち難い。だが現代人の心の中はいつも、棚からの恨めしげな視線によって、少なからずかき乱されてないか。そうしていつもなにかに監視されることによって、現代人が少しずつ枯らしてしまったのは、それは集中力という美徳じゃないか。集中することがすなわち現在を生きることだとすれば、注意散漫な人間は全然生きていないという話になる。

もはや「時間」がそのまま過ぎることはない。「冷凍」は「時間」を編集する技術だからだ。

買ってきたものを一度でも伏せて「冷凍」してしまったら、「時間」の連続性から切り離されてしまう。だから買ってきたまま手を離さずに一日を終えたい。「時間」が編集される現代において、「時間」の編集可能性を認識し、それを意識的恣意的に操作しなければ、満足に現在を生きることすら難しくなる。ともすれば「冷凍」とは、生に貧困をもたらす技術だからである。

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初版:2022/01/14

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