誰もが物事を語る資格を持っている

2021/12/22 ・ 雑記 ・ By 秋山俊

ネットではよく「xxxxを経験してないやつがyyyyを語るな」といった排外的な論調がまかり通っているが、これは暴力的な考えである。

理由を2つ挙げると、1つは「それを言い出すと“おまえが語るな”の制限が無限に連鎖し、あることについて語れる有資格者は常にごくわずかになってしまう」から。いま1つは「“内輪”に閉ざされた議論は硬直的で発展性がない」からである。

「おまえが語るな」の連鎖

たとえば「安保闘争の時代に生きてなかったやつが安保を語るな」と主張する“内輪”の人間は、また他のより一層少数の“内輪の内輪”の人間から、「安保闘争に身を投じてなかったやつが安保を語るな」と言われても、それに反論することが難しい。この「おまえが語るな」の入れ子構造は、どこまでも内奥へ潜る可能性を持っており、極端なことを言えば、「中核の数人以外は全員無資格者だ」という独占的な結論に至ることも可能である。また実際にそういう空気を漂わせるフィールドも枚挙にいとまがない。

またこれらを認めるなら、「戦争を経験していないやつが戦争を語るな」も通ることになってしまい、減る一方の戦争経験者以外は戦争を語れなくなってしまうし、120年以上昔の出来事を語れる有資格者は皆無ということにもなりかねない。歴史学者なら語っていいのか?博士号を取っていればいいのか?資格の有無はまったく恣意的だし、語る人間が減れば、過去はただ風化していく一方だろう。

“内輪”の議論は最高到達点ではない

そもそも「“内輪”の人間がそれに最も知悉している」という考えすら一つの思い上がりであって、“内輪”の人間は内輪という一部の領域を独占しているに過ぎない。むしろ内部にいる当事者だからこそ、客観的全体的な視点を持たず、物事を偏って見ている可能性が大いにある。

「自分自身に最も遠い存在は、各人それ自身である」とはニーチェの言葉であるが、まことに、傍から見ればわかりきっているのに、当人だけは自分を理解できてない、という「距離と理解の反比例」はこの世でありふれている。人間は自分の顔を直接見ることはできないのである。

また議論というのは、同じ空気を共有する同属集団からは、決まりきったいくつかの結論しか出ず、それらが堂々巡りするものである。いまだ到達されない次なる議論は、常に硬直を打破する外部の者と、新しい時代を求めている。

議論というのは資格の有無よりも内容の妥当性をこそ論じるべきものであって、誰もが物事を語る資格を持っている。無論、その時代その空間を生きていないということは、それだけ議論の事情に疎いという歴史的ハンディを背負っているのだから、“外部”の人間の意見が妥当かどうかはまた別の話だ。語る人間は自らの責任において言葉を紡がねばならない。

なにも知らない人間が思いつきで言う言葉が癪に障るのはわかる。しかしその場合でも、“内輪”の側は、「あなたの意見はこういう事実を見落としている」と反論するか、あるいは単に無視すればいいのであって、問答無用に「おまえには語る資格そのものがないのだ。ここにいる人間以外、口出すんじゃねぇぞ」と排斥するべきではない。他人を呪う者は、同じ呪いで別の人間からも呪い返され、社会は最終的に沈黙しか選択できない「言葉の辺獄」に追い込まれるのは既に述べたとおりである。

テキスト系記事の一覧

初版:2021/12/22

同じテーマの記事を探す