人はなぜ陳腐な表現をしてしまうのか

2021/12/21 ・ 雑記 ・ By 秋山俊

シャルルの会話ときたら歩道のように平板で、ありふれた考えが普段着のままゾロゾロと出てくるばかりだから、情熱も笑いも幻想もあったものではなかった。

La conversation de Charles était plate comme un trottoir de rue, et les idées de tout le monde y défilaient dans leur costume ordinaire, sans exciter d’émotion, de rire ou de rêverie.

ギュスターヴ・フローベル
『ボヴァリー夫人』

4パターン考えてみる。

  1. 陳腐な表現しか思いつかないから
  2. 受け手が理解できないと想定しているから
  3. そもそも「表現は陳腐であるべきでない」という考えがないから
  4. それが陳腐であると認識することができないから

ここではあらゆる表現(文章・会話・イラストなど)における「陳腐さ」一般について考える。

1.陳腐な表現しか思いつかないから

「1」は修練や教養の問題でもあるが、時間的制約の問題でもある。コンテンツ制作とは常に時間(=予算)との戦いであり、それぞれの表現を十分に新奇あるいは面白味のあるものにする(かつ、それがくどくならないように調整する)だけの時間を確保することは困難である。コンテンツ制作の予算として無限の時間を設定することは現実的ではない。

限られた時間の中で、表現をあたう限り新奇で趣深くするのは紡ぎ手の修練と速力である。つまり画を描くのと同様、慣れればある程度複雑なものも短時間で生み出せるようになる。

速度重視の場合、内容さえ新奇であればいいと考え、たとえば文章表現においては、むしろ新書のように、あえてありふれていて平易な言葉を羅列する場合もある。

活字が権威の座から脱落し、ネットで無限に増産される大量の文字に圧倒されている現代人のほとんどに、もはや「文章を鑑賞する」という読書態度はない。文章はもっぱら読み捨てられる。時間は不足している。陳腐な表現はありふれているだけに、少ない脳力の消費で理解できる。したがって陳腐な表現が「読みやすい文章」として幅を利かせている、というのは現在の言葉の世界の暗澹たる事実だ。

2.受け手が理解できないと想定しているから

これは「2」とも関わる。表現は深化するほど、理解するために当該ジャンルに対する教養が必要となる。たとえばダ・ヴィンチの写実主義は誰でも理解できるが、ピカソのキュビスムは誰でも理解できるわけではない。

大衆的なものは常にある種の陳腐さ(分かりやすさ)を備えていなければならない。刹那的なウケを狙うなら、むしろ陳腐な方が都合が良いということになる。どちらの層を想定するかという問題である。

チボーデは小説の読者を二種類に分けております。一つはレクトゥールであり、「普通読者」と訳され、他の一つはリズールであり、「精読者」と訳されます。

三島由紀夫『文章読本』
三島由紀夫全集第28巻 評論4, 新潮社

3.そもそも「表現は陳腐であるべきでない」という考えがないから

「3」は純然たる認識の問題なので特に書くことはない。

4.それが陳腐であると認識することができないから

「4」の問題は、作り手側にとってもおいそれとは「見えない」問題であって、厄介な問題である。陳腐なものを陳腐であると判断するには、ある程度の「嗅覚」の発達が必要となる。新しいジャンルに参入したばかりの者は、そのジャンル内でなにが、既に執拗なほど繰り返され陳腐化しているのかを判断することができない。いやむしろ、新参者はそういう陳腐なものにこそ感動し、それを真似してはしゃいで・・・・・しまうものなのだ。

表現は繰り返されるほど汚染され陳腐化する。汚染は放射能のように広がるから、陳腐なものに触れている人間も汚染される。昔から「目利きになるには良い作品にだけ触れること」と言われるのはこのためである。

陳腐さに対する「嗅覚」を常に磨き、嗅ぎ分ける能力を発達させること――「嗅覚」は、作り手はもちろん、受け手であっても、表現の汚染を感知し、そのジャンルのより深くへ入り込むために必要な表現感覚だろう。

(ヘッダー画像:Flaubert, Madame Bovary, folio classique)

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初版:2021/12/21 ―― 改訂: 2021/12/22

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