コンテンツの面白さとはパロディである

2021/12/20 ・ 雑記 ・ By 秋山俊

この世界が純然たるパロディなのは明らかである。つまり、人間が見る事物は各々、他の事物のパロディであり、さもなくば期待はずれな同一物なのだ。

Il est clair que le monde est purement parodique, c’est-à-dire que chaque chose qu’on regarde est la parodie d’une autre, ou encore la même chose sous une forme décevante.

ジョルジュ・バタイユ『太陽肛門』

「コンテンツの面白さの正体とはなんだろう?」っと考えたとき、「そのコンテンツからどれだけ新鮮さを感じるか」が、まず重要なこととして挙げられる。

人間はコンテンツが、なんらかの点で「新しい」ときに面白さを感じる。それは必ずしも0から1を生み出す必要はない。むしろ、0から1が出てくることなど滅多になく、ほとんど全てのコンテンツは「既存のもの」を流用して作られているに過ぎない。

そしてバタイユが言うように、「既存のもの」を流用して作られたあらたなコンテンツは、他の事物のパロディか、不動のつまらない同一物(コピー品)かである。ここでいう「パロディ」とは「新しい表現で描かれた同一物」であって、必ずしも滑稽の意を含まない。

ジョルジュ・バタイユ(1987-1962)

パロディは新しく、コピーは陳腐である

もちろん受け手が望むのはパロディであって、コンテンツは可能な限りコピーよりもパロディで構成されていなければならない。コピーは陳腐であり、人々は陳腐な表現に飽き飽きしている。

たとえばある女子中学生が、校長のつまらない訓示をけなす日記を書くとする。このとき「うちの学校の校長が……」と書いたのでは、それは表現としては「期待はずれな同一物」であり、誰にも見えている事物をそのまま言い表しているだけに過ぎない。

そこで、灰色の日常を嘲笑し、権威を否定することでアンニュイを打破しようとする我らが女子中学生は、この校長のことを、「壇上の不動のうすら頭」とか「ユーモア欠乏の疾患を抱える我が校の第一教師」とか、なにかしらのオリジナルな表現で呼ぶべきなのである。

これらは「校長」のパロディである。ここで「校長」という存在自体になにか本質的な変化が生じたわけでも、彼女がなにかを0から創作したわけでもない。しかしパロディは物事の視点を変え、対象の価値を更新し、世界を更新する。退屈を抱えた女子中学生は、「校長」のパロディによって、自分の、そして読み手の見る世界を更新しなければならない。そこにあるモノの名前をただ連呼しているだけで大喜びしている幼児と違い、大半の人間は、変わらない世界にうんざりしているのであって、表現は常に、世界の新しい姿を渇望している。

たとえば『アンネの日記』という有名な日記文学がいまだに読みつがれているのは、この本が、戦争体験の貴重な証言だからではない。ただただ、世界のおわりを超越せんとする筆者アンネの「世界のパロディ化能力」が優れているからなのである。

学校でのわたしは、どんな子供だったでしょう? しょっちゅう新しい冗談とか悪戯などを思いつく張本人。いつもお山の大将で、けっして不機嫌になることがなく、けっしてめそめそ泣いたりしない。みんなが競ってわたしと自転車を並べて通学したがったのも、みんなの注目がわたしに集まったのも、こうして見ると当然ですよね。

アンネ・フランク著、深町眞理子訳『アンネの日記』
アンネ・フランク『アンネの日記』

ナチスに処刑される危険に晒されたアンネは、危機に瀕した世界をパロディ化する。人々はその日記を読んで「ホロコーストの嵐の中でも懸命に生きた少女の記録」というありふれた感想をコピーする。それに違和感を覚えた書評家は、次に『アンネの日記』をパロディにすることで、その退屈を打ち破る。

「当然ですよね」、などと同意を求められても、そんなことは知らないし、ちょっとどうでもいい。この子はいったどうしたものだろう。まったく臆することなく、「私は人気者です」と自称できる神経の太さ。こうして読んでいるだけで、からだがむずがゆくなってくるようである。

伊藤聡『生きる技術は名作に学べ』ソフトバンク新書

この書評はパロディである。つまり『アンネの日記』を読む視点の更新であり、パロディとは世界の解釈である。パロディをパロディにすることによって、我々は連綿と価値を更新してきた。「文化の厚み」とは、すなわち堆積されたパロディの地層の厚みとバリエーションの豊かさである。(念のために書くと、上に引用した書評はツッコミを中心に書かれた、当該本に対して好意的な内容である)

フィクションはなぜ面白いのだろうか。それは、フィクションは現実のパロディだからである。神話はどこかの国の権力闘争のパロディであり、ファンタジーは作家が昼寝したときに見た夢のパロディである。メタファーはもっとも活用されるパロディの手法であり、人は根も葉もないところから何かを生み出すことはできない。人の生み出すものには常に根があり葉もあり、すなわちパロディの対象が存在するのである。

人々はコピーに飽いている。世界はパロディを渇望している。であるならば、我々が今から生み出す言葉はなんであるべきだろうか。

誰しも気づいている。生命はパロディであり、そこには解釈が不足しているということに。

Tout le monde a conscience que la vie est parodique et qu’il manque une interprétation.

『太陽肛門』

(ヘッダー画像:ジョルジュ・バタイユ”L’anus Solaire”(邦題『太陽肛門』))

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初版:2021/12/20 ―― 改訂: 2021/12/21

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