「でも本当にそうなんだろうか」について

2021/11/24 ・ 雑記 ・ By 秋山俊

前提として、人間の知性や認知の限界として、人間は「バカ」から脱出することはできない。人間は全員「バカ」であり、その中で「どれほどマシなバカか」という序列らしきものがあるに過ぎない。

なぜ人間は全員「バカ」なのか。根本的なところでは処理能力・認知能力・記憶能力などのヒトのハードウェア性能が、この世界の複雑さや問題量に対して、絶望的なくらい不足している。どれくらい不足しているかというと、「電卓程度のスペックで人間の脳をシミュレートしなければならない」というくらいに不足している。

どんな賢者であっても、この世界のことはほとんどなにも分かってないに等しい。しかし知識の多い人間は少ない人間に対して、暫定的な回答やレトリックで疑問を覆い尽くし、問題を極端に単純化されたモデルで考え、無限に等しいほどある懸念を捨象することで、ひとまず色々なことに知悉しているかのような「フリ」はすることができる。「知の巨人」だろうと「カリスマ聖職者」だろうと、そのような「フリ」しかできないことは公然の秘密なのだが、多くの質問者はそれでひとまず納得するし、世界はそのように回っている。

また人間の極めて厄介な性質として、考えたくないこと、眼を逸したいことを目撃するなどの負荷がかかると、自らを積極的に盲目のアホンダラになるよう仕向け、心にお花畑を描いて思考停止し、ひとときの平穏を得ることに邁進するという無意識の懸命な働きがある。これに関しても、どのような賢者であっても例外なく自己欺瞞の奴隷であり、というかそうでなければ人間は3日ともたずに発狂する。

たとえば死という現象を常に直視していれば、この世のあらゆる行為が無意味に思えて、多くの人間はあっという間にウツになるだろう。まさしくロシュフコーが言うように「死と太陽は直視できない」のである。

「死を解する人はほんの僅かである」「人はふつう覚悟をきめてではなく、愚鈍と慣れで死に耐える」(『ラ・ロシュフコー箴言集』)

ハードウェアの喩えを敷衍すれば、人間はCPUやメモリがそもそも大変不足していて、あらゆるアプリケーションを処理できずに、「『こいつは信用に値するか?』は応答していません」→「プログラムを強制終了します」などの操作を年中繰り返しているにも関わらず、バックグラウンドでは常に不穏なプロセスが跋扈し、ただでさえ足りない処理能力を意図的に下げたり、計算結果を改ざんしたり、そもそもアプリが立ち上がらないような妨害工作をしている。

「今より少しだけマシなバカ」への目覚め

人間は「バカ」であることから完全に脱出することはできない。しかし「今より少しだけマシなバカ」に脱出する可能性だけは持っている。正確に言うと、脱出できる権利は持っている。それは「でも本当にそうなんだろうか」と考え続ける権利である。

我々は日々、無数の結論をくだす。数多くの断言を行う。声に出さなくても頭の中で断定する。それは別の見方をすれば、眼前の生活を実行するために、行動するために、我々があるレベルの「バカ」になることに甘んじたということだ。ちなみに素朴な人工知能にはこれができないと考えられている。複雑過多な問題を全て完全に処理しようとして動作が停止し、無限の計算に没頭してしまう。これを「フレーム問題」と呼ぶ。逆説的だが、「バカになる」というのは「問題を絞り込む」という、高度で知的な作業でもあるのだ。

人は「バカ」にならねば生活できない。だがそこでくだされる結論は、絞り込まれた問題設定に暫定的な解を与えただけの、不完全な「バカな結論」である。しかしそのような「バカな結論」を「世界の真実」であると思い込み、盲信したとき、「バカな結論」はその人の中で、文字通り「世界の真実」となる。

そうなった人の内面では、その「バカな結論」が永遠に固定化され、その人自身も「そのようなバカ」として固定化されていく。そういう人が歳をとると、段々と「世界の真実」であるところの「バカな結論」が脳内に累積し、ついには無数の固定化された「バカな結論」によって駆動する頑固ジジイが、くたびれたマイホームからステッキの陰鬱な響きを町内に鳴り渡らせて出撃し、伊勢丹のエスカレーターは、そのような頑固ジジイを乗せて今日も無限の昇降運動を抜け目なく繰り返しているのである。

だから「今より少しだけマシなバカ」になることを望む者は、「でも本当にそうなんだろうか」という自己批判性を手放してはいけない。「でも本当にそうなんだろうか」と疑い続けるということは、生活の実践のために「バカ」になることに甘んじつつも、「今より少しだけマシなバカ」へと脱出する可能性――言うなれば、もう一段階上層の意識への「目覚めの可能性」を留保し続ける、ということである。

「でも本当にそうなんだろうか」と常に自己を批評し続けることは、決して楽なことではない。それは幸福論ではない。しかし人は満足した豚であるより不満足な人間でありたいものではなかろうか。

『インセプション』という映画では、主人公たちは、他人の夢の中に侵入しようとする。しかし夢の中でさらに眠ることは危険とされる。夢の中で眠ると、次第に夢と現実の区別がつかなくなり、いずれ人は「潜在意識の辺獄リンボ」に落ちてしまう。「辺獄」に落ちた者は、二度と現実世界に戻れない。「辺獄」の中で人は見続ける。決して目覚める見込みのない空虚な夢を。

現実とは意識の見ている夢である。「無限の現実」を己の「バカ」によって「有限の真実」に縮約して認識している夢である。しかしその夢を現実だと確信し、意識の命綱を手放してさらに深く眠るとき、人は再び自分に気づくことができるだろうか。それは幸福な夢であろうか。

――いつか見た夢の中で、なにかがおかしい、なにかが狂っているとずっと思っていたのに、なにがおかしいのかを考えることができなかった。

自分が何を知っているのか説明はできないが、感じてはいる。君はそれを人生でずっと感じてきた。この世界は何かがおかしいということを。それが何かはわからない、だがそれは眼前にあり、心に刺さった棘のように君をかき乱している。

What you know you can’t explain, but you feel it. You’ve felt it your entire life, that there’s something wrong with the world. You don’t know what it is, but it’s there, like a splinter in your mind, driving you mad.

モーフィアス
『マトリックス』

※:ここで論じた中での「バカ」は、以前「バカとはなにか」で論じた中での「バカ」とは、言葉の意味合い(言葉が指し示す「バカ」のレイヤー)が異なる。便宜上、たまたま、同じ言葉を使っているだけである。

(ヘッダー画像:カンディンスキー「赤の小さな夢」)

テキスト系記事の一覧

初版:2021/11/24

同じテーマの記事を探す