読書とは編集行為である、という話

2021/11/14 ・ 雑記 ・ By 秋山俊

書物(テクスト)の最も優れた特性は、受け手の「編集介入度」が極めて高いことで、ここが他の映像や音声といったメディアとは決定的に異なる。本を読むという行為は、瞬間的連続的に本を編集する行為である。

仮にある本の1章と3章だけを読み、それで本を置くとしよう。その場合、読者はその本を1章と3章だけの本として、瞬間的に編集したということなのだ。またある文章の特定の箇所を少しゆっくり読み、別の箇所をサッと読み、また別の箇所を読み飛ばすとき、その文章はやはり「そのような形」として、読者によって瞬間的に編集・再構成されているのである。

読書をするときに、どんな人間でも、全ての文章を一から順に、均質に読むことはできない。そこには必ず「編集ムラ」が生じる。したがって、冒頭から「きちんと」読んでいるつもりでも、本は常にまだら模様に編集されて読まれている。

書物は、このような高速で自由自在な編集が、読者によって無意識に負担なく行われる。それによって書物は、「受け手が望んだように編集された唯一無二のテクスト」として読まれる、という点において、他のメディアを圧倒している。

映像や音声でも、たしかに早送り、巻き戻し、倍速再生といった、受け手による編集介入が可能である。だがその介入速度は、読書に比べて圧倒的に遅く、不便で、自在さに欠ける。ほんのちょっとスキップするだけで、次の会話の途中からいきなり再生されてしまうかもしれず、その場合、わざわざ会話の始まりを探しに戻らねばならない。その過程は異様にトロトロしており、結果として人は「何もしない」という編集放棄を選ばざるを得ない。書物であれば、このような編集行為は一瞬のうちに負担なく行われる。

読書に慣れた人間ほど、書物を自分が快適なように編集しながら読むことができる。読書に親しみ、「メディアに流れる時間は、受け手によって自在に編集されるべきである」と考える人間は、ゆえに映画やTVなどを観るとき、そこに流れる、一方的に強制された時間の流れに不自由を感じる。たまたま自分の感性や能力に合致したプログラムを除き、その強制された時間の流れが受け手にピッタリ当てはまることはない。ある箇所は冗長で、ある箇所は速すぎる。魅力的な部分で時間を止めて、絵画を鑑賞するようにじっくり眺めることもできない。

読書には、常に読者の主観的な時間が流れている。他方で、映画やラジオにはそれぞれ固有の時間の流れがおり、作り手側の生み出した時間の流れを享受するメディアである、とも言える。

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初版:2021/11/14 ―― 改訂: 2021/11/23

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