「事実は小説よりも奇なり」は当然であるという話

2021/11/09 ・ 雑記 ・ By 秋山俊

小説(以下、フィクションと一般化する)というのは、人間の想像の及ぶ範囲内での「劇的ドラマティック」しか表現できないもので、逆に現実というのは常に「想像外」のものである。なぜなら、人間の脳が考え出せる限界は人間の脳の範囲から出ないが、現実というのは宇宙が予想外なぶんだけ想定不能で、それは人間の脳の範囲を遥かに超えているからである。

フィクションは 「劇的ドラマティック」 は容易に繰り出せる。

「父の仇だと思っていた人間が実の父だった」

「最初に死んだと思われていた男が事件の犯人だった」

しかしこれらは 「想像の及ぶ範囲内での想像外」、すなわち「劇的」でしかなく、それは一種の「展開の誇大」である。フィクションは誇大することは得意だが、本当の意味で想像の外にはみ出すことは難しいし、はみ出す意味もあまりない。

なぜなら本当に想像外の出来事は、あまりにも想像外であるがゆえに、作品のテーマと関わりがなくなってしまい、なんらかのテーマを表現しようとするフィクションとしては「無意味な出来事」になってしまうからである。シャーロック・ホームズは『花婿失踪事件』で、ワトソンの「小説は事実よりも奇なり」を論駁するための例として「妻に入れ歯を投げつける夫」を出すが、この入れ歯は想像外ではあっても、フィクションのテーマには到底関わりそうにない。

「劇的」 というのは文字通り「演劇ドラマ的」ということである。古代ギリシアより「演劇ドラマ」というものは、あるテーマを表現するために人工的な人物関係を構築し、必要最小限の役者を配置し、「想像の及ぶ範囲内での想像外」によって「演劇」を演出した。

したがって「物語」と「演劇ドラマ」は意味するところが違う。「演劇」というのは、作り手の見えざる手によって、なんらかのテーマを人工的構造的に強調するフィクションである。したがって芥川が目指したような、筋のない小説というものは成立するが、筋のない演劇は演劇にならない。いわゆる純文学的なものを除いた、大多数のフィクションは演劇の延長であるから、この演劇が持つ特徴と限界は自ずと継承することになる。

「現実は人間の頭が生み出すいかなるものより、限りなく不可思議なものなんだよ。人間は本当にありふれたものをあえて想像しようとは思わない。

ところがもし僕らが手を取り合って窓の外へ飛び立ち、家々の屋根を静かに外し、そこで行われている奇妙な出来事を覗き見れば、奇怪なる偶然、計画、交錯する目的……そういった出来事のとてつもない連鎖反応が、世代を超えてうごめき、とんでもなく風変わりな結末へと着地していることがわかる。このような現実の前では、月並みで、見え透いた結末によって構成される全ての作り話は、古臭くて無益なものになってしまうだろうね。」

“Life is infinitely stranger than anything which the mind of man could invent. We would not dare to conceive the things which are really mere commonplaces of existence. If we could fly out of that window hand in hand, hover over this great city, gently remove the roofs, and peep in at the queer things which are going on, the strange coincidences, the plannings, the cross-purposes, the wonderful chains of events, working through generations, and leading to the most outre results, it would make all fiction with its conventionalities and foreseen conclusions most stale and unprofitable.”

シャーロック・ホームズ
コナン・ドイル『花婿失踪事件』

(ヘッダー画像:『花婿失踪事件』)

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初版:2021/11/09 ―― 改訂: 2021/11/10

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