「常識」ではないヤツは「ヤバい」について

2021/11/08 ・ 雑記 ・ By 秋山俊

世の中にはどうも会話が成立しないと感じる人が大勢いるが、私が特にそう感じるのは、「『常識』の守護者」たちである。

彼らはいつも「『常識』でないのはヤバい、ダサい」と考えている。たとえば「xx歳までに結婚しないのはヤバい」とか「男(女)なのにxxxxなのはヤバい」とかである。 「『常識』の守護者」たちの言葉は「xxxxなのにyyyyはヤバい」「xxxxはyyyyするもの」という定型で出来ている。そして「なぜそう思うの?」と訊くと「普通そうだろ」「それはそういうものだから」「それが常識だろ。なに言ってんだ」という、理屈になってない理屈が帰ってくる。

「それが常識だから」は、正確に言えば「私はそれが当たり前だと信じているから」「みんなそうしていて、私は自分がそうじゃないのはなんかヤダし不安だから」という個人的な感覚でしかない。別に個人がなにを信じるかは自由なのだが、守護者たちの厄介な点は、個人の信じる「当たり前」に、不用意に「常識」という特権を与え、全人類に遍く行き渡っているはずと勝手に思い込み、またその価値観を他人にまで押し付ける(彼らは「みんなと共有されている」と主張する)ことに、なんの違和感も批判性も持たない、という点である。

彼らは「常識」が「人間として当然の感覚」だと考えている。周りの人間が大抵「そう」であって、みんな「そう」しているのが「当たり前」だから、人がそこから外れているのは「ダサい」し「ヤバい」と信じている。そしてそれを臆面もなく、「あの人って『常識』じゃないから『ヤバい』よね」という形で表明する。

実のところ、彼らは「常識」を疑うことを知らないのではない。彼らは「常識」そのものなのである。彼らこそが「常識」の遺伝子であり、「常識」という概念が世界で肉体を得るための現身なのである。

「『常識』の守護者たち」はなぜヤバいのか

なにかを「ダサい、ヤバい」と批判すること自体が悪なのではない。価値観や倫理観を持つ、ということは、なにかを「スゴい」と感じ、なにかを「ダサい」と感じる、ということだ。つまり物事の価値の自己判断をするということだ。

私がいまこの文章の中で主張していることは、端的に言えば「根拠なき『常識』を疑えず、ましてそれを他人にまで押し付けるヤツはダサいしヤバい」ということである。そして私の「ダサいしヤバい」は、「なぜ?」と訊かれてもいくらでも説明できる。

  • これだけ世界の情報が共有され、歴史が明らかにされている現代において、自分たちの生きている時代・地域にたまたま存在するだけの「奇習」に過ぎないところの「常識」を、不動で普遍的な人間感覚と信じているのが不勉強で認識不足だから
  • 「多数派だから正しい」という論理構造の誤りに気づけず、むしろそれを堂々と発表するオタンコナスだから
  • 自分の所属する文化や価値観を相対化できてないのが視野狭窄だから
  • その視野狭窄で偏った価値観を他人に押し付けて当然顔しているのがメタ認知不足で、はた迷惑だから
  • 自分の行動や価値観に対して自己批判性や批評性を持たない、世間に盲従的で長いものには巻かれろ的な紋切り型人間は退屈で面白味がないから
  • 「逸脱していること自体が無様で無能」という全体主義的姿勢が、社会から多様性や可能性の芽を摘んでいて有害だから
  • 常識感覚というのはえてして偏っており、そもそもそれが本当に「常識」で「多数派」なのかすらギモンだから

5万個くらい列挙できるのだがキリがないので止めておく。

しかし私は、仮にいま目の前に「『常識』の守護者」たちがいて、ここまで述べた理屈を説いたとしても、彼らは99.9%の確率でそれを拒絶し、「常識」を批判する私を「ヤバい、ダサい」と言いながら去っていくことを確信している。再度書けば、彼らは「それはそういうものだから」という、理屈を超越した「常識」感覚に絶対の信頼を置いてるからこそ守護者たりえるのであり、そんな人間に理屈は通用しないからだ。だから彼らとは話が通じないのである。

「『常識』の守護者」 というのは理知より本能に忠実な人間であって、その本能というのは「大多数に混じって安心したい」「価値観を揺るがす少数派を、数的優位を利用して一方的に排除し安心したい」というサル社会的な欲求である。彼らは安心感に奉仕するために活動しており、そこでは理屈など屁でもない。いざとなれば「常識」という金属バットを使ってみんなでタコ殴りにすれば「勝てる」し、また「当然勝ってる」と思ってる。したがって「とにかく、それが『常識』なの!」という、純度100%の拒絶が返ってくるのである。

常識とは18歳までに集めた偏見のコレクションである。

Common sense is the collection of prejudices acquired by age 18.

アインシュタイン

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、「世間というのは、君じゃないか」という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)

(世間じゃない。あなたでしょう?)

(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

太宰治『人間失格』

適切な主語を用いましょう。

自分の意見を投稿する際には、「【私は】こう思う」としっかり主張しましょう。他人の意見を投稿する際は、「【ある人は】こう思っている」と誰の意見なのかを具体的に記しましょう。

意見を投稿する際、根拠なく「世間」「社会」「みんな」などの大きな集団を主語としないでください。それは、責任逃れです。

ニコニコ大百科「楽しく過ごすために」

太宰メソッドとは、太宰治「人間失格」の一節に由来する、ネットスラングのひとつ。[……]

何かを否定したり非難するときに、発言の主語を自分ではなく「世間」「世論」「被災者の方」「事件の被害者」「他のお客様」「ウチの会社」「このサイトのユーザ」など多人数であやふやなものに置き換えることで、発言の正当性を強調しつつ自分の発言の責任を回避すること。問題は、その集団の意見を勝手に代弁する点にある。

[……]

関連語

・Royal we
英語における「太宰メソッド」。かつての王侯貴族が使っていた自分の領民を代表する一人称weに由来し、勝手に集団の意見に代弁する人物に使う皮肉として使われる。

・主語の大きい人
「さよなら絶望先生」144話に登場した語。主語を自分だけでなく自分を含む集団の意見を勝手に代弁する人のことを指し、「太宰メソッド」とほぼ同じように使われる。

ニコニコ大百科「太宰メソッドとは」

(ヘッダー画像:ロートレック「ムーラン・ルージュにて、ラ・グーリュとその姉」)

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初版:2021/11/08 ―― 改訂: 2021/11/10

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