アニメのちから

2021/11/07 ・ 雑記 ・ By 秋山俊

アニメというのは、アニメーションという、人間の「力業」に対する感嘆だと思う。

たとえば雨が降る描写。雨が降る、そんな現象はまさに日常茶飯事なわけだが、それがたとえば新海誠の映画の中で、実に精緻で神経を配らせた人工的な雨を見て感動する。雨というより、雨を再現できてしまった人間の力に感動する。もう少し原始的な例を出すと、パラパラ漫画に妙に感動するのと同じである。

アニメは全て意識したものしか映らない。アニメに純粋な無意識は存在しない。であるならば、アニメにできたものは、人間がそれを、それがアニメーションすることの感嘆を、十分に意識できた証である。

実写というのは、ある意味で宇宙の力を借りている。神秘的な言い方をすれば神の助力を得ている。人間と神の共作としての創造、それが実写である。ふかしたタバコの煙が妖しいゆらぎをしながら立ち上るとき、そこに美しさは感じても、人間の底力は感じない。それは美しいが、しかし宇宙の複写に過ぎない。

他方でそれが、アニメで表現されていたらどうか。ふかしたタバコが妖しく、計算不可能な空気の複雑な流れを見事に表現したとき、そこに人間の底力が流れている。

ある意味でアニメは、人間という幼子が独り立ちしようとしてこねたクリエイションである。

(ヘッダー画像:『茶目子の一日』1931年)

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初版:2021/11/07

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