人はいつ年齢に追いつかれるのか

2021/11/05 ・ 雑記 ・ By 秋山俊

先日36歳になったのだが、私は「年齢と限界」というものについて、世間とは話が噛み合わない。私は年齢に関して否定的で自虐的な言い方が全く好きではない。

私なんぞありがたいことにただの「若造」であって、全然未熟で自分がたどり着きたい領域にはまだまだ接近できていない。50歳くらいまでに「まあまあ」くらいの領域にたどり着ければ、そこからようやく人間活動としての「青春」が始まるだろうと思い日々を過ごしている。北斎も馬琴も50歳くらいから本領を発揮し始めたのだから、人間そんなものだろう。

もちろんこういう私の物言いは、世間一般には一笑に付されるのがオチで、彼らに言わせると、私は自分の「年齢と限界」から必死に目をそらそうとしている哀れな人間だそうである。こういう人たちに向かって自説を説くと、彼らは十中八九激昂するので、私は何も言わないことにしている。27歳で受験勉強を始めたときにもそういう態度で接してきた人間がいたが、私は無視していたし、そこから大学に入ったことは今でも「当たり前のことが起きただけ」だと思っている。

人はいつ自分の年齢に追いつかれるのか。それは「自分もxx歳らしくしなきゃ」と、世間の常識を了解した瞬間である。正確に言うと、その瞬間に追いつかれて、ただちに追い抜かれるのである。30歳の人間が「もう30歳だから、あとは年齢相応にやってくしかないな」と考えれば、その人は40歳相当になってしまうだろう。

野球のイチローが45歳まで現役選手でいられたのは、彼が「50歳までやって当然。それが最低線」と宣言していたからに他ならない。仮に「45歳まではやります」と宣言していれば、40前に引退するハメになっただろう。

人間の精神というのは、自己の確信力をそのまま反映している。精神は己に対して全く正直である。当然だと信じていることだけが当然になる。虚勢では意味がない。イチローが45歳まで継続した事実は、彼の「オレは50歳以上までやる」という確信力が、かなり強かったことを示している。逆に言うと、どれだけ強い確信力を持てるかがその人の才覚であり、限界ということになる。

別に「オレは若い!」と力説する必要はない。そういう力説はかえって自らの不自由さを証明していることになる。坂口安吾が言うように、「年齢には年齢の果実がある」ということだ。したがって小うるさい雑音に対しては「あっそ」と言っていればいいだけである。

元来、人間精神というものは黄金で出来ている。それは自由自在に自己の形を変えることができ、不滅の輝きを放っている黄金精神である。しかし世間的常識の圧力がこの黄金を圧迫し、強制的に変形せしめてしまう。常識に屈服したとき、黄金の魔法は消える。そして常識の鋳型に沿った不自由な鉄に変形して錆びていくのである。

「もう若くない」「もう若くなくてもいい」と思った途端、人間は荒むふけるのである。

橋本治『デビッド100コラム』

年齢には年齢の、若さには若さの果実がある。そして時代に時代の果実がある。

坂口安吾『新しき文学』

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初版:2021/11/05 ―― 改訂: 2021/11/24

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