虚業と実業、あるいは芸人と農家はどちらが偉いか

2021/10/27 ・ 雑記 ・ By 秋山俊

ある人がラジオで「自分はラジオパーソナリティなんてやってるが、こんな自分より農家の人のほうがよっぽど偉いでしょう?だって僕がいなくても誰も困らないけど、農家の人がいなくなったら困るじゃん」といった主旨の発言を、相方に投げかけていた。またその人は別の場所で「ネットの物書きやYouTuberは虚業だが、弁護士は実業だ」といったことも述べていた。

恐らくこの意見は、過半数の人から「そうだね」という同意を得られるだろう。しかし私は「これって誰もが同意する“事実”でしょう?」という彼の言葉の調子に違和感を覚える。

結論から書くと、私は食料生産や建築などの第一次・第二次産業の従事者に比べて、作家や動画配信といったクリエイティブな仕事が劣っているとか虚業だとは思わない。人によって何がより価値あるものかは異なるが、それは個人の価値観や、生産物のクオリティによって決められるものであって、他人から「事実」として押し付けられるようなものではない。

たしかに、「社会でより多くの人間の行為を支えている労働の価値が高い」という考えがある。また肉体がなければあらゆる人生経験が発生せず、したがって肉体の維持に関わる仕事が最も価値が高く、人間のすべての行為の大前提である、という考えはこの社会に根強い。これは一見すると「素朴な真理」なのだが、実際には数量崇拝物質主義的な考え方に寄っており、真実の一面でしかない。

「実際に食える/使えるものだから、頭の中で消費するだけのものより価値が高い」「人間の生命維持が最も重要」――これは物質主義である。しかし私は、人生の生き方や喜びを教えてくれた様々な書物や遊戯などを抜きにして、自分の人生がどうあったかを知らない。それは確かに腹の足しにならないし、頭の中で消費するだけのものだったが、他人の言葉や遊びこそが、私にとっては父親や友人代わりだった。だから「家族や友人よりご飯のほうが大切だし、偉い」と言わないのと同じ理由で、それは比較しても意味がなく、どちらも生きる上で不可欠なものである。

件の人は「自分がこんな仕事やってなくても誰も困らないが、農家の人がいないと困る」と言っていた。しかし「困るか」という点では、あるピーマンを栽培している農家が廃業しても別の業者が担当したり、将来的には機械が代わることもできるだろう。またピーマンがなければパプリカを食べることもできる。

しかしラジオ・パーソナリティやYouTuberなどの仕事は、その人がいないと同じものは作れない。その人の仕事で人生が楽しくなっていた人にとっては、間違いなく「困る」。代わりになれる労働者がいないという点で、希少性が高く、かけがえのない仕事をしていると考えることもできる。

だから私は、作家などが自嘲気味に「小説なんてなくてもいいものなんですが」という言い方をするのが好きではない。なぜ、自分にとって大切な営為の価値を、堂々と信じることができないのか。娯楽や物語抜きに人間が生きられるはずがない。だからこそ古来より祝祭があり、神話がある。

物質主義と「生きること」

「食べ物がないと、死ぬ」。これは事実だが、それは「肉体が滅ぶ」という意味であり、肉体が「生き延びている」からといって、その人が真の意味で「生きている」かは断定できない。肉体の維持こそなにより崇高な使命とするのは物質主義であり、延命治療で患者と家族を延々と苦しめる現代医療の歪みもそこにある。

私はこう信じる。人間にとって重要なのは、「生き延びる」こと以上に、「生きる」ことである。生きる甲斐がない人生は既に人生ではない。であるならば、生き甲斐の生産者は間違いなく人生の生産者である。

人がいつか絶対に死ぬ以上、衣食住の提供は、あくまで「人を延命させているだけ」と見なすこともできる。そうであれば、衣食住やインフラ整備が絶対的に他のものより価値が高いと言い切れるか。(もちろんここで私が社会インフラ業などの価値の優位性に疑問を呈しているのは、最初の発言への反論目的であって、それらの仕事をけなしているわけではない)

もし自分がどこかの部屋に閉じ込められ、100日分の食料を買う金だけを持っていて、通販しか利用できないとしよう。金が尽きれば絶対に死ぬとする。ならば食料は最低限にして、餓死するまで好きな娯楽品を買って過ごしたほうが幸福ではないのか。そしてこれは人生そのものなのである。

聖書には、「人はパンのみにて生くるにあらず」という有名な言葉がある。また「身の財より心の財第一なり。心の財積みたもうべし」という仏教の教えもある。人は肉体的な存在であると同時に精神的な存在でもあり、 自分の脳が作っている虚構的現実に生きる生命なので、人間にとってはあらゆるものが虚構であり、虚構こそが我々が認識している現実そのものである。だから物質的に存在しない「笑い」とか「哲学」とかも、脳内現実で「味わい」「生きる養分にする」ことができるし、現実に存在する物質と、価値に本質的な差はない。

虚業と実業

何かが絶対的客観的に“実”であり、あるいは何かが普遍的に“価値がある”ということはありえない。「あるものが価値があるか」「どちらがより高い価値を持つか」は、それぞれ人生に対する相対的なものでしかないからだ。だからそこには「私にとってAはBより価値が高い」という“価値観”はあっても、「AはBより絶対的に価値が高い」という“事実”はない。人間が生きる“現実”とは、「自分の価値観」というフィルターを通した“虚構”に過ぎない。

あらゆる価値判断が個人的なものである以上、何が“虚業”で何が“実業”か、という分類も、実際には全く主観的な分類である。

たとえば「カジノは虚業だ」と言うのは容易い。しかし世界には、ギャンブルだけが生きがいという人間とか、競馬場で知り合った人間関係が人生のすべて、といった人がいくらでもいる。ジョルジュ・バタイユのように、蕩尽こそが経済ひいては生命に欠かせない行為だと考える思想家もいる。もし娯楽が虚業だとすれば、旅行会社もサーカスの一座もすべて虚業ということになる。現代のアートビジネスなどは目も当てられない。

件の人は「弁護士は実業」と言っていたが、それもどうか。たとえばアメリカでは訴訟の多くが単なる言いがかり、もしくはカネ目当ての恐喝であり、成功した映画なんかには必ず百軒単位で訴訟が飛んでくるので、プロデューサーは必ず弁護士を抱えていなければならない。他の作品を本当に真似たかどうかに関係なく、絶対に「俺のパクリだ!」とタカってくるハイエナが出てくる。もはや裁判自体が目的化しており、マネーゲームと化しているのだ。こういう訴訟社会における弁護士の商売は、悪い見方をすれば自作自演的であり詭弁的とも映るだろう。それらはすべて物事の一面に過ぎない。不動産バブルが膨らめば建築業すら“虚業”めいてくる。

“虚業”と“詐欺”は違う。契約を交わした双方にある程度の納得がある限り、それは健全な行いであり、“虚業”か“実業”かというのは、単に個人的な価値判断に過ぎない。

冒頭で挙げた人は、おそらく「マジメ」なのだ。だから「農業で汗水垂らして働いている人に比べて、自分なんて」っと謙遜して、いささか自嘲気味に語っている。しかし農家には農家の、芸人には芸人の人生があるのであり、それぞれの人生には固有の喜びと苦しみがある。その仕事は誰かにとってかけがえがなく、誰かにとって役に立たないものである。そういう人生だから、自分を必要以上に貶める必要はないし、また貶めるべきではない。自分を最後まで肯定できるのは自分だけであり、自分を肯定できれば世間など取るに足らないからだ。

私の人生においては、食料も芸術もネットコンテンツも人生に欠かせないものであり、したがってそれぞれの生産者についても、優劣をつけることはナンセンスである。

ボードレールはかつて、「人はパンなしに3日生きられるが、詩がなければ生きられない」といった。ここでいう“詩”とは、“芸術”のことであり“精神の栄養”のことである。人は精神の栄養が不足すれば心を病み、精神が死ぬ。我々は現代社会に生まれた以上、必然的に詩や音楽といった文明そのものに、分離不可能なほど同化し一体化しているのだ。

諸君はパンなしに3日生きることはできる。――詩なしには、決して。そして諸君の中の、これに反することを言うものは間違っている。彼らは己を知らないのだ。

Vous pouvez vivre trois jours sans pain ; — sans poésie, jamais ; et ceux d’entre vous qui disent le contraire se trompent : ils ne se connaissent pas.

シャルル・ボードレール『1846年のサロン』

(ヘッダー画像:シャルル・ボードレール)

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初版:2021/10/27

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