散文の人間からすると、歌人は戦闘民族です

2021/08/25 ・ 雑記 ・ By 秋山俊

最近、短歌の歌論などをズラズラと読んでいる。すると歌人たちの、語り手としての圧倒的な戦闘力に驚いてしまい、散文の世界がひどく呑気に思える。

短歌の世界は、まず評論がすごい。苛烈ですらある。一文字一文字の音の響きや、意味の多重性、表現効果などに踏み込んで、対象の歌を激しく解剖して言語化してしまう。一見、詩的な感受性の世界でありながら、コトバに対しては恐ろしく科学的な態度で臨んでいる。彼らは皆エリートなのである。

これと比較すると、散文の「語り」の世界はずっと羊的で、武器を研がず、平和をむさぼっている。物語がどうとか、テーマがどうとか、この登場人物が面白いとか。散文は文章が長く無数の要素が詰め込まれているため、語るときにいくらでも論点が出てくる。小説などは長大で、細部まできちんと把握するのが困難であるため、逆に言えばぼんやりした語りでもごまかせるし、それぞれの論者の論点は発散して重ならない。

しかし短歌はそうではない。短歌は三十一文字しかないから、語れるフィールドは非常に狭い。そのため深く掘り下げなければ、「良かったです」という小学生並の感想でジ・エンドである。必然的に三十一文字に真正面から立ち向かい、格闘しなければ、語る資格すら得られない。語る箇所も必ず他人とぶつかってしまう。

歌人たちがこのようなエリート戦闘民族である理由としては、他にも

  • 語り手自身が作り手であることが多い
  • コトバに対して敏感な人しかいない
  • 全体的に意識が高く向上心が強い
  • そもそもマイナーな世界なので、選ばれし人間しか参加していない

こういった理由が挙げられるだろう。

文章を書く練習をしようと思ったとき、まず短歌の世界で修行を積むのはかなり良い方法ではないかと思うし、国語教育としても有用なはずである(ちゃんとした教師さえいれば)。短歌の世界はごまかしが利かず、ディテールがあらわなので、コトバに対する感性を磨かねばならない。陳腐な常套句やクリシェを使うことは許されない。したがってコトバの基礎力がつく。最近短歌に大いに注目している。

(ヘッダー画像:与謝野晶子)

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初版:2021/08/25 ―― 改訂: 2021/08/26

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