文客堂とは何か?――主から皆様へのメッセージ

2021/08/14 ・ 雑記 ・ By 秋山俊

皆様、はじめまして。私が文客堂ぶんかくどうの主、秋山俊です。いかがお過ごしでしょうか。

っと、見せかけて、上の画像は若き日のグレン・グールドであり、私とは1ミリも関係ありません。なぜ、グレン・グールドなのか?それは、この文章を書く直前にたまたま聴いていたからです。あとなんか威厳ある館の主が語ってる感じの雰囲気だったからです。

さて、2018年9月より始動した革新的な仮想言説空間My 自由帳である文客堂は、以下のような目標・理念を掲げて運営しております。

  1. 地域(World Wide Web)の皆様との思弁的交流
  2. 子供たちを苦しめる、読書感想文という非合理な責苦の根絶
  3. ネットに蔓延るファッキン・アフィリエイト記事に対するアンチテーゼ
  4. Webサイトの未来の可能性の追求

地域(WWW)の皆様との思弁的交流

文客堂は、地域 (WWW)の皆様との交流を第一に考えております。地域 (WWW) に役立つ言説空間でありたい。そのため、私、秋山が最近読んだ本や、鑑賞した映画の感想などを共有することにより、皆様が消費活動を行う際の参考になればと思っております。

「おまえの感想など十把一絡げなもので、毒にも薬にもならん」――お説ごもっともです。しかしネットの集合知とは、まさにその十把一絡げなる下草たちが集合することで、その間から大樹、すなわち質的に全く異なる知が芽吹くものです。そして小生は、自らがその大樹の根本に眠る一本の枯れ草になれれば本望、っと考える葦です。

子供たちを苦しめる、読書感想文という非合理な責苦の根絶

文客堂は、学校による読書感想文の提出の強制とは、「それまでの人生で、取り立てて“コトバとは何か”、“オリジナリティはあり得るか”、といった根源的な思索をしたこともなく、文体の訓練も積んだことがない大人たちが、校長の訓示に代表されるような紋切りの展覧会を日常とする創造性の墓場たる“学校”という空間において、人生の最も多感で創造的な時期にある子どもたちに対し、通信簿を盾にとって、その成長の可能性に自ら自殺するよう脅迫し命じる組織的犯罪行為」であるという主張を一貫して行ってきました。

もちろん中には、人生の手本とすべき、優れた国語教師が、子供たちに豊かな読書体験と、貴重な作文経験の機会を提供している学校もあるでしょう。いかにも、そのような幸運な空間も存在するでしょう。

しかし、そうではない状況のほうが圧倒的に多い、そうとしか思えないのが現状の教育現場なのです。そのような現場では、読書感想文の強制とは、教師による稚拙な作文術・読書論の押しつけになるか、さもなくば、難題投げっぱなしによる、恐るべき教育放棄となるでしょう。料理をしたことのない人間が料理教室を開くのと同様に、文を書けない人間による作文教室は災害的結果を招きます。

上記の「読書感想文とは何か」について語った括弧内の文章は、当時の私が感じた理不尽を言語化したものなのです。子供たちを導けるような優れた教師がいないにも関わらず、天下りの形式主義で読書感想文を強制しているのがいけないのです。大人も、大人の限界を認めるべきなのです。

そしてそのような責苦にある子どもたちを救済するため、文客堂では、小・中学校の生徒たちが学校の課題に対応する場合に限り、本サイトにおける文学作品などに関する文章を自由にコピペして構わない、という特例を設けております。

読書感想文という理不尽に対抗するためには、もはや「眼には眼を」の精神で、子どもたちも巧妙に迂回するしかないのです。

引用とはなにか

未来を一身に背負った子供たちのために、ここではもう少し具体的な助言も載せましょう。

読書感想文においては“引用”を積極的に行うべきです。これは、まともに文章を書いたことのない子供が原稿用紙を埋めるのが困難なので、字数稼ぎとしての意味もあるのですが、そもそも何かについての感想や考察というのは、本来、引用を伴わなければおかしいものなのです。世の中には、本の編集者の中にすら、引用の本義を理解していないオタンコナスも存在するらしいので嘆かわしいかぎりです。

引用は自分が感じたこと、考えたことの根拠を、読み手にも「ほら、ここを読めば、僕の書いたような感想/考えが出てくることが分かるでしょう?」と示す、重要な役割を持っています。文学部の大学教授などは、学生の提出するレポートに対し、「必ず作品からの引用を含めること」と条件を付けるほどです。実際、引用を含まない文学の論文など、お話になりません。

であるから、読書感想文に引用が含まれていても、その態度を称賛することこそあれ、「他人の文章を写して書くのはズルだ。けしからん」などという的はずれな評価は、絶対にあるべきではないのです。しかしそもそも、私は小中学校の読書感想文で、一度も「引用しなさい」と言われなかったことに、大いに疑問を持っています。「自分の意見を主張するために、その根拠を引いてくる」ということくらい、小学生でもまず理解できるはずです。

もし引用それ自体について文句を言われたら、そんな教師に対しては、「先生のアホ!スカタン!トーヘンボク!どーしてこれが大切だってことがわかんないの?!引用の意味すら理解できねーヤツが文章を語んじゃねぇ!引用というのは根拠の提示のみならず、同時に対象の批評でもあるのだよ。つまりある箇所を引用するということは、他の箇所を引用しないことと同時的なのだ。引用それ自体によって、その箇所が持つ重要性に光を当て、テクストを瞬間的に編集再構成し、見落とされていた意味を浮かび上がらせ、新たな読みを提示すること――すなわち、批評!創造的読解!それはある個人の詩群から、特定の詩を選んで詩集を編纂する行為が、すなわち詩を批評する行為であるのにも似ている。引用行為それ自体が批評であるというのに、それが感想文になっていないなどという、バカな理屈があるものか。己だけの自閉的な内輪語りに、共感もヘチマもあるものか。感想とは批評とは!自意識過剰の饒舌体が、あたかも他人の仮面をかぶって語る己語り。――“批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではなかったか!” 断じて批評的であらねばならぬ。それが言説の責務だ。言論の宿命だ。すなわち、言葉を手にした人の因果だ。けどこんなこと、先生には分かんねぇだろうな。親父にもお袋にも分かんねぇだろうな。オレは令和のみなしごなんだ。オレはバカだからさ、学校から手渡された紙切れ一枚、己の痕跡を残さずにはおれんのだ。」とでも言ってやってください。

私はなんの話をしてたんでしたっけ?

そうだ、読書感想文の話でした。感想を書くために引用が必要という話です。以上のように引用は重要なのです。

読書感想文に備えるための本

読書感想文に対する準備としては、ピエール・バイヤールが著した読書論の大名著『読んでない本について堂々と語る方法』なども参考になるでしょう。

ピエール・バイヤール『読んでない本について堂々と語る方法』筑摩書房

これは一見、不誠実な本に見えて、その実、読むということの本質に迫っている意欲的なテクストです。バイヤールは語ります。「本を語るのに、実際にその本を読んでいる必要などない。いやむしろ、読んでいない方が都合がいいくらいなのだ」っと。なぜなら読まないことによって、人はより創造的になれるからです。バイヤールは、重要なのは、本と本を取り結ぶ関係、すなわち文脈なのだと説きます。この本は、本好きの間ではマストバイと言われているほどです。

また宮沢章夫著『時間のかかる読書』も、読書感想文の攻略法に重大な示唆を与えています。

この本は横光利一の短編小説『機械』を、11年かけて考察しながら読んだという、途方も無い大事業をまとめたものです。 宮沢章夫の筆は開幕から冴え渡っています。なんと、連載第一回目から話が明後日の方向に進んでいき、 『機械』 の冒頭一文字すら読むことかないません。ようやく本編を読み始めても、1行読むたびに3ページくらい考察が挿入され、一向にお話が進みません。読書体験はのらりくらり、11年も遅延され、アホみたいに長々と語り続けます。これに比べれば、学校の読書感想文の字数を埋めることなど、児戯に等しいでしょう。

ある意味では、本書は 『読んでない本について堂々と語る方法』 の逆説的な応用と言えるでしょう。なおこの本は、そのあまりの素晴らしさに伊藤整賞を受賞しました。

読書感想文を書く

このような高度な読書論を理解すれば、読書感想文を書くために、実際に本を読む必要などないことが分かります。いや、むしろ読書感想文をしたためるには、本をすべて読んではいけない、とすら言えそうです。子供の読解力では、読めない漢字、知らない単語の嵐で、まず、嫌になり、読めば読むほど混乱する本ばかりです。だから挫折するのです。

本を読破しようとする子供には、感想文を書ける見込みがありません。読まないから、書ける。それに、これは公然の秘密なのですが、本当は大人だって、森鴎外や太宰治を読んでもチンプンカンプンなことが多く、それが故にネットの質問掲示板は毎日大賑わいなのです。

そのため、正しい読書感想文の書き方としては、まず冒頭の一行だけ読みます。名作の冒頭句は名文美文であることが多く、非常に雄弁で、豊穣で、示唆に富んでいて、プロレベルになれば、これだけでブログ記事を一本書いたり、本を一冊でっち上げたり、論文を書いて、果ては博士号を取ることだって不可能ではないほどなのです。

なので、読んだら本を閉じます。もう少し読んでもいいですが、3行くらいにしておきましょう。それ以上、読むと、死にます。死ぬかも、しれません。本を読むのはそれくらい大変なのです。命が惜しかったら本を閉じてください。……なにをしているのですか?はやくとじてください。しにたいのですか?じさつしがんしゃですか?きしねんりょがありますか?

……あなたは本を閉じました。感想文を書き終えるまで、もう二度とその本を開く必要はありません。開かない。オレはもう開かないぞ。絶対に開かないんだからな鴎外!っと誓ってください。別に漱石でも芥川でも構いませんが、とにかく誓ってください。本の続きは感想文を書き終えてから、じっくり愉しめばいいのです。

『こころ』を3行読んで感想を書く

さて、まずやることはなんだったでしょう?引用です。冒頭の読んだ部分をあまさず引用します。

たとえばあなたが、日本で最も有名な小説『こころ』について書くとします。すると引用は次のようになるでしょう。

私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。

夏目漱石『こころ』

これで大体、文庫本の3行分くらいです。既に原稿用紙4,5枚程度を埋めるには、過剰なほど材料が出揃っています。つまり朝飯前です。「マリオカート」の1面より簡単です。真のプロならここからブログ記事を3本捻り出し、さらにツイッターで7度つぶやいてバズを狙うことも夢ではありません。ちなみに自慢じゃないですが、私は大学時代に『ライ麦畑でつかまえて』という小説のタイトルのみ、すなわち日本語10文字を元にして2,000字(後に4,000字まで加筆)のレポート1枚を仕上げたこともあります。しかし皆さんはまだそのレベルにないので、夏休みの宿題をやっつけたらポケモンでもしてくだしあ。

夏目漱石『こころ』岩波文庫

さて、この引用文は流れるような美文であるだけでなく、実に感想文向きです。さすがは日本文学の代表作です。まず、引用した全ての文に「?」が浮かびます。

なぜ先生と読んだのか?なぜ本名を打ち明けないのか?なぜそれが自然なのか?なぜすぐ「先生」といいたくなるのか?

このような疑問を支点にして、行間に隠れた豊かな水脈を掘り当てれば、泉のように感想が湧いてくるのです。

善は急げ。考えるな感じろ。急がば急げ。さっそくPCかスマホに、思いついたことをどんどん書いていきます。後で原稿用紙に清書しないといけない場合でも(最近の学校ってどうなんでしょう?)、とりあえず入力が速く、やり直しがいくらでも利くデジタル機器で書き始めてください。早く書かないと、あっという間に感想が霧消してしまいます。なんなら音声で記録してもいいです。

最初に、引用した根拠を明記した方がいいでしょう。そうすれば内容がわかりやすくなり、字数も稼げます。読書の毒を巧妙に回避し、3行しか読まなかったあなたは、もちろんその根拠を想像でしか書けませんが、どうせ正しいから気にしなくていいです。 このことは後述します。

以下は私が「典型的な14歳の女子中学生が3行だけ読んで書いた」という設定で今、書いてみたお手本です。もちろん本サイトの特例に則って、これをコピペして提出しても構いません。

***

――『こころ』を3行読んだ女子中学生の感想文――

なぜこの冒頭のたった3行が重要なのでしょう。それは、この3行に『こころ』の、いえ、おそらくは漱石という作家の、そのすべてが――この卓絶にして孤絶たる文豪の、その宿命の主調低音が通奏していると感ぜられたからに他なりません。断言いたします。この3行には、『こころ』の全てが、在る。実際、私は『こころ』を読み終え、再びこの冒頭の箇所に戻ってきたとき、終わりと始まりが完全に繋がっていること、そのウロボロスのごとき円環構造に驚愕したのです。

冒頭文は日本文学の中でも屈指の有名な文章でしょうが、この部分の構成は実に巧みです。まず全体が流れるようで、テンポよく、十分な意味の厚みを持ったままリリカルに響きます。これは漱石前期の傑作『草枕』の冒頭にも似ていますが、『草枕』では音数を合わせながら脚部の止め方で足並みを揃えた、漢詩や西洋詩に倣ったとも言える、韻文的な美を基調としていました。しかし『こころ』は、さらに散文詩的な美学に接近しているように思われます。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れて、絵ができる。

夏目漱石『草枕』

こうして見ると、『坊っちゃん』から『草枕』、そして『こころ』へと、漱石のお家芸とも言える、序文の詩的リズムの表現方法が変化していることが見て取れます。つまり、『こころ』の最初の3行は、漱石の文章技術の粋であり、また同時の彼の文学観の変遷をも表していると思われます。

ああ、いけません。この3行はあまりにも語るべきことが多すぎますわ!また実際に私はここから、『こころ』についての真に驚くべき結論にも達しましたが、この原稿用紙は、それを書くにはあまりに狭すぎるのです。そればかり書いていて「結論を避けてる」と誤解されてもまずいですから、ほどほどにしておきましょう。秋山俊による「子供たちを苦しめる、読書感想文という非合理な責苦の根絶」という文章にも、作品の全ては最初の3行で分かる、と書いてありましたが、それが真実だと容易に了解できます。

そのため、正しい読書感想文の書き方としては、まず冒頭の一行だけ読みます。名作の冒頭句は名文美文であることが多く、非常に雄弁で、豊穣で、示唆に富んでいて、プロレベルになれば、これだけでブログ記事を一本書いたり、本を一冊でっち上げたり、論文を書いて、果ては博士号を取ることだって不可能ではないほどなのです。

秋山俊「子供たちを苦しめる、読書感想文という非合理な責苦の根絶」

さて、それでは早速ここから『こころ』の内部へと迫っていくのですが、私はこの序文を読んだだけで、すぐピンときました。

この書き方、これは「私」と「先生」のホモセクシュアルな関係を暗示しているように思えてなりません。

実際、この部分は私(あたしのことです)が最近読んだBLマンガと、セリフの息遣いがそっくりです……

(以下略)

***

解題――語れることなど無限にある

長くなり過ぎるのでこんなところで止めておきますが、こんな感じで冒頭の3行程度でも、想像と創造の両翼を伸ばして、いつまでも滑空し続けることは可能なのです。あえて引用も控えめにしましたが、もっと漱石作品から大量に援用して、これでもかと自説を強化しても構いません。実際、文芸批評では半分くらいが引用で占められていることもザラにあるのです。

このお手本では、できるだけバランス良く見せるために省略しましたが、別に冒頭のリズムの話だけで原稿用紙3枚埋めても構いません。BLマンガの話をどんどん拡大して、いつの間にか『テニスの王子様』とか『黒子のバスケ』とか、あるいは全然関係なさそうな少女マンガの話を、読んでいると先生の夜も明けてしまいそうな枚数分語り尽くしても、全然オッケーなのです。

多くの人は、題材に直接関係あることだけを書かなければ不誠実だと思いこむ傾向にあります。しかし問題は「読み手に対する文章の説得力」、そのただ一点にのみあります。文章が十分な説得力やおかしみを保っていれば、書き手の好き放題に書いてよく、読み手もむしろ、その書き手の自在さや、テーマに対する内容の意外性を愉しむものなのです。

天衣無縫の優れた文章を作るには、いかに巧妙に、もっともらしく脱線するか、そこにかかっていると言っても過言ではありません。真に優れた教師はすぐ脱線して雑談に終始し、しかもなぜか生徒たちの成績も悪くないのに似ています。

またこの女学生は、『こころ』について真に驚くべき発見をした、っと書いてますが、これは本当でしょうか?どっちでも構いません。どうせそれは、学校の渡した原稿用紙には収まりきらない、つまり「語り得ぬもの」だからです。確かめようがなく、言ったもん勝ちです。つまり完全犯罪です。あとでそれを書けと言われたり、口頭で先生から訊かれたとしても、「そんなこと言ってない」「忘れた」「月が綺麗ですね?」などと言って、適当にスルーすればオッケーです。

ときには大犯罪者のように堂々と

ところで、上のお手本に書かれていること自体は、『こころ』の内容と大体符合しています。まんざらデタラメでもないのです。つまりたとえば、「終わりと始まりが完全に繋がっている」というのは真実です。なぜ、この14歳の胸のでかい女子中学生は、冒頭のたった3行を読んだだけで、ここまで堂々と踏み込めるのでしょうか?

夏目漱石

それは文章というものの性質を考えれば当然のことなのです。優れた物語は大抵、何らかの形で、序文と結末が繋がっており、読者が再読した際に「なるほど」と思わせるものです。また序文というのは物語全体の暗示なわけですから、その内に必然的に物語の結論を含んでいます。

さらに言えば、作者の不手際で全然繋がっていなかったとしても、「繋がってる」と言い張れば、「オレは気づかなかったが、そういう解釈もできるのかなぁ」っと思われるし、そもそも繋がってるかどうかなんて主観的なものなので、強弁すればどうとでもなるのです。我々の目的はあくまで、目前の読書感想文を抹殺することにある、という本分を忘れてはなりません。

またこの女子中学生は、巧妙にも文中で「作品は3行読めば語れる」という真理を自白し、あまつさえ私の書いた文章を引用すらしているようです。なぜ彼女は、これほどにもヌケヌケと自らの手口を告白できるのでしょうか?

それはたとえるなら、真に芸術的な犯罪者は、あたかも公園を散歩するかのように堂々と大犯罪を実行するので、周囲の人間は、そこで大犯罪が起きてるとは夢にも思わない、というのにクリソツです。つまり咎められないかビクビクしているから、かえって目立つのであって、王者のように堂々としていれば、誰もあなたのことを疑えないのです。

実際、天才的な犯罪者の伝記を読むと、大抵は豪傑肌で、犯罪を見せびらかすように実行しているものです。完全犯罪の金字塔である「3億円事件」など、堂々たるもので、銀行員に「危ないからどっか行きなさい」と叱って追い出し、銀行員はその毅然とした態度に尊敬の念を抱いたとすら言われています。フランスの豪傑的犯罪者たちにヒントを得たルブランの『ルパン』で、神をも恐れぬ大胆さで犯罪が実行されるのはこのためです。どうやら我らの女子中学生には、大犯罪者の天分があるようです。

真の読書体験とはなにか

「読まずに書く」「知らずに語る」ことの奥義は、このような、個別の事柄に依存しない、普遍的な世の理を総動員する中にあります。賢者とそうでない人の違いは、まさにこの点にこそあるのです。平凡な人は、目前の個別固有のできごとに全力でぶつかることこそが誠実だと思い込み、いつまでも個々の具体性を超えた真理にはたどり着けません。

一方、我らの女子中学生のような非凡な人間は、『読んでない本について堂々と語る方法』や『時間のかかる読書』から、「そもそも“本を読む”とは何か?」という真の問いを抽象し、己のものとした上で、現実の困難を、その実践応用の機会と見なします。そうして限られた経験から、世界の問題全般に対処する術を学ぶのです。

これこそが真の読書体験であり、限定的な人の生を無限に拡張する叡智です。読書とは本来、このような有益な体験を目指して行われるものであり、決して、他人に強制されて読みたくもない本の中に、ありもしない課題を見つけ、書きたくもない駄文に青春を浪費して自己嫌悪に陥るために行われるものではないのです。

というわけで、読書感想文なんてものはさっさと片付けて、子供たちは伸び伸びとポケモンでもしているのが一番です。

補講:どうしても書けないとき

さて、以上で読書感想文の書き方は一通り述べましたが、中にはやはりどうしても書き始めることができない、という人もいるでしょう。

何も心配する必要はありません。

そういう人は「書けない」という事実を「書いて」みてください。そしてなぜ「書けない」のかを「書く」のです。すると不思議なことに、それが勝手に感想文になってしまうのです。それはあたかも自動筆記のごとくに、です。

以下にその例文を載せましょう。下記は「どこにでもいる平凡な11歳の男の子が『こころ』の感想を書く」という設定です。

***

――11歳の男の子の『こころ』感想文――

申し上げます。申し上げます。先生、ぼくは、書けない。『こころ』の読書感想文を書こうと思いましたが、無理でした。書けない。三日三晩かけても一文字も書けない。そのせいで海へ行く約束をすっぽかし、枕を濡らした夜も一晩だけではなかったのです。ぼくは、ヤクザものでございます。書けない、書けないと言いながら、その書けない理由すらわからない、とんでもない阿呆なのです。

しかし書けないとばかり書いているのも情けないので、ここで自己解剖の試みとして、ボードレールが言うところの「死刑囚にして死刑執行人」の心持ちで、せめてなぜ書けないかについてだけは書いてみようと思います。

まず最初の「私はその人のことを常に先生と呼んでいた」。この出だしからして、気持ち悪い。だから、書けない。L’Impossible不可能。「その人」って誰ですか?ぼくは自分が知らない話をいきなりされると、うんざりしてしまうのです。ぼくの大好きな少年ジャンプのマンガだったら、もっと最初からすごくカッコイイ絵を描いたり、とんでもない悪党が登場したりして、読者の心をグッとひきつけるはずです。それとも、こういう洒落た出だしで始まることが「文学的」ということなんでしょうか?

というか、「文学」って、何?

起承転結しない、理解し難い物語を語る、自閉的な物語のことを「文学」と呼ぶのですか?つまんないだけじゃないですか。そんな物語に、一体なんの価値があるんですか?この本、11歳のぼくが読む必要、あるんでしょうか?

(以下、延々と読めない理由が続く)

***

解題――学校教育に対する無意識の批判

この文章は、一見したところ「読書感想文」失格です。その辺の視野狭窄で考えの浅い教師であれば、にべもなく「再提出」を告げる可能性すらあります。

しかしよく考えてみれば、この文章は十分過ぎるほどに「感想文的」であり、その辺のコンクールに入賞する、優等生的な(≒毒にも薬にもならない)文章より、多くの重大な論点を含んでいます。

まず「書けない」と言いながら、「気持ち悪い」「うんざりする」「つまらない」など、立派に「感想文」しています。これが感想でないなどと、誰が言えましょう?世の中には無数の、「駄作」「つまらない」ということだけを言っている評論が存在しているではありませんか。

ここで知ってか知らずか、少年は「感想文」という枠組みが持つ、ある強迫観念を暴き出し、学校教育そのものを批評してしまったようです。

それは、「感想文」とは、対象のテクストに対して肯定的な感想を抱き、それを「健全」で「建設的」な形で発表しなければならないという、病的でヒステリックな博愛主義に対する疑念です。そして学校の課題をこなすとは、そのような表面的な健全さに偽装した裏カリキュラムを如才なく読み取り、自らを病んだ社会に適応させる欺瞞的行為である、ということを無意識に察知した、少年の鋭い感受性による、社会への痛烈な批判になっているのです。

このような告発を受けた大人たちが、ときに見る見る顔を紅潮させて激昂するのは、彼らもまた、そのような抑圧を受けて育った「支配者にして被支配者」であるためです。そして子供たちの素朴な疑問が、自分たちの抱える根本的な病の、その病理を、真昼の教卓に突然曝け出してしまったことに気づいた、不安と焦りによる自己防衛反応によって、彼らは激昂するのです。

嫌悪には根本的な疑念が潜んでいる

またこの少年の感想文の中には「文学とは何か」「通俗とどう違うのか」「それを義務教育で読む必要があるのか」など、非常にラディカルで本質的な問いが含まれています。回答するには、もはや地方のいち教員では荷が勝ちすぎ、市内の音に聞こえた教育者たちを招集して円卓会議を開かねばならないほどです。

実はあるものが「つまらないな」っと感じるとき、その疑問の中には、対象に対する根本的な懐疑が潜んでいるものなのです。哲学がつまらないと思う大学生たちは、大抵の場合、「そもそも哲学って何?」という疑念を抱いています。それに対して教授側も、分かってるんだか分かってないんだか微妙な講釈を行い、あたかもその根本的な疑念が解消されたかのような素振りで形式的に授業を進行させます。そのため、誰もが根本問題を共有していない、空疎な議論が続くことになるのです。

しかし本当は、そのような根本問題をこそ徹底して追求するべきであり、むしろ授業の題材などというものは、その疑問を露にするための呼び水に過ぎません。いっそ、学校の授業でも通年で、「そもそも文学とは何か」「漱石の文は美文と言えるか」などを議論し、国語の教科書は花壇の下にでも敷いていてもいいのです。にも関わらず、手段と目的を取り違え、授業はただの朗読会と陳腐な解釈のお披露目に堕し、国語教育の本懐に殉じることなく終わっていく授業のなんと多いことでしょう。

メタ感想文の文学性

上記の感想文そのものの構造に関して言えば、一見素朴、というかデタラメでありながら、実はただの感想文より高次の文章になっていることに注目してください。

つまり「感想を書く」ことが手段であり目的であるはずの文章で、「感想を書けない」ことを告白するというメタ感想文になっているのです。さらに「書けない」ことを告白することが「書く」ことになっている――なってしまっている――という、「語れないことの不可能」を表現する文章でもあります。対象のテクストよりも「ぼく」が前面に出てきて、自己言及的な語り口になっているのも特徴的です。

実はこの架空の感想文は、太宰治の『懶惰の歌留多』という短編小説をヒントにしたものです。

太宰治

『懶惰の歌留多』においては、小説にも関わらず、作家である「私」が、ひたすら「書けない」ことを告白し続けます。「書けない、書けない」と、ひたすら嘆いただけの文章が「書けないことを書いた小説」と化したのです。そして現在でも全集などに収録され続け、その著作が億を軽く超える印税を叩き出し、太宰が日本の文豪として教科書にも載っているのは、あなたもよく知るところでしょう。私は『懶惰の歌留多』が、太宰中期の秀作の1つであると考えています。

もし小・中学生がこのようなメタ的な感想文を提出したならば、その文才と認識力の早熟に驚嘆することこそあれ、「こんなものはデタラメだ」とは、とても言えないはずです。もしその程度にしか解釈できないとすれば、その教師は、自らのお粗末な文学的教養を暴露してしまったに過ぎません。

ここで1つの提案をしてみましょう。それは『懶惰の歌留多』に関する読書感想文を書く、ということです。そしてさらに「『懶惰の歌留多』の感想が書けない」ということを「書く」のです。これはなかなか野心的で、面白い試みと言えるはずです。 「語れないことの不可能」 は既に作品内で説明されているので、いかに鈍感な教師でも、それを読めば、「これは『書けない』体で『書く』という感想文だ」と気づかずにはおれません。

複雑な入れ子構造になった感想文は、知恵の輪のような小説と化し、もはや文学コンクールに提出した方が適切になるかもしれません。

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初版:2021/08/14 ―― 改訂: 2021/08/24

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