ネットのひろゆきへの手のひら返し / ひろゆきとは何なのか? / 自意識の不存在

2021/08/07 ・ 雑記 ・ By 秋山俊

最近、ひろゆきがネットでめちゃくちゃに叩かれています。彼の頭上には、火山でも爆発したみたいに石が降ってきているという有様です。彼の配信動画では、高評価:低評価が5000 : 6000みたいなのもあります。

まあ勝てない相手(三橋貴明, F爺)に連戦を挑むという、兵法的には論外な蛮勇を見せてしまい、『論破力』で自ら語っていた「論破できても、それで自分が損をしたら意味がない」と考えられるような冷静さが全然なかったのは、さすがに情けないです。が、「ヒカキンを超えた!」「若者の味方!」とかいう絶賛ムードから、一転して袋叩きモードに突入している今のネットの流れも、かなり気持ち悪いというか、辟易して冷めた思いがするので、ここではあえて、「ひろゆき批判を批判」してみることにします。

誰とは言いませんが、春頃まではやたら彼を持ち上げてリスペクトしていたクセに、風向きが悪くなるやいなや、「あいつはもう終わった」とか言って切り捨てたYouTuberたち。それと同様に、ネットの、ひろゆき関係の動画が上がるたびに猫も杓子も「それはあなたの感想ですよね」とコメントを残すファンボーイぶりを発揮し、「なんでも知ってる」「地頭がいい」とか絶賛していたのに、論戦で敗北したのを見た途端に手のひらを返し、「ひろゆきはあくまでエンタメとして見るものだからなw」みたいな定型レスを量産している人たち。負けムードだと感じれば、あっさり手を切って叩く側に回る。

あなたたちのその、便乗的で、付和雷同で、勝ち馬に乗りたがりな「自己のなさ」。その軽薄さは、まさにひろゆきの欠点と同じではないですか。あなたたちは、安易な手段で、楽して、要領よく生きたいから、ひろゆきの言葉を聴いていたのではないですか。今炎上している彼の姿は、明日のあなたたちの姿ではないですか。

ひろゆきとは何なのか

もちろん、ひろゆきの言葉は薄っぺらいです。私は、彼がまるで民衆の英雄のように扱われているのを見て、危機感を覚えました。

その状況はほとんど、古代ギリシアで民主主義が腐敗し、口先だけが達者なデマゴーゴスたちが跋扈して権力を握った状況の再現です。しかもそれが、YouTubeという、かつてないほど高速で配信されるメディアを通じて広まっているのを見たとき、嫌な予感を覚えなかったと言えば嘘になります。

私の考えでは、ひろゆきという人物は、ニーチェが言うところの「おしまいの人間(末人)」の頂点に立つ存在です。つまり世間に科学や資本主義が浸透した結果、副産物として「みんなくだらない」「生きてる意味なんてない」というニヒリズムが蔓延し、その最もラディカルで先鋭化された虚無主義者として、彼のような極端な人物が出現したことになります。

自意識の不存在

その思考の特徴は、「自意識の不存在アブセンスとでも呼ぶべきものです。彼のような人間は、まるでそこに自意識が存在していないかのように振る舞えます。

それはつまり「炎上しても注目されりゃOK」とか「土下座は単に頭を地面に当てるだけ」みたいな態度です。人間の活動は全て「どれだけ効率よくカネを集められるか」だけで評価され、岡田斗司夫みたいな「ゲスの極み」にいる人間でさえ(知らない人はググってください)、巧みに集金することによって「有能」「見習うべき」と評価されることになります。

ひろゆきが岡田斗司夫崇拝者であることは、現代社会の在り方がさらに先鋭化した先での、未来のヒエラルキーを示しているように思えます。実際、この態度は資本主義の仕組みとガッツリ噛み合うので、社会的にはめちゃくちゃ強いです。

反対に、余暇を除いて儲けに直結しない労働はナンセンスであり、儲けの少ない仕事を必死こいてやっているのは、ひろゆき的な言い方をすれば「無能」ということになります。

しかしここに、ニヒリストたちの誤謬、計算違いも含まれているのです。

もしひろゆきが純度100%のニヒリストであれば、そもそも、あんなにTVに出たりYouTubeをやる必要もないのです。それこそ、彼の常套句である「生活保護で生きていけます」というやつでしょう。彼がなにを目指してせっせとカネを溜め込んでいるのか、それは知りませんが、「イライラした自分に驚いた」とうそぶく彼が、周囲に推されて専門家相手に負け戦を演じてしまい、「論破」に必死になったり、一瞬激しく動揺する姿に、私は彼の「人間」を見た気がしました。

ひろゆきは無痛の人か

彼はなぜ、自身が3年前の著作で否定していたタブーを犯し、論戦のための論戦に熱中し、敗北を喫したのでしょうか。それはやはり、「論破は手段に過ぎない」と言いながらも、そこに一種の「誇り」を見出していたからではないでしょうか。

YouTubeで伸びる前のひろゆきなら、あるいは、あのような戦いは避けていたかもしれません。しかしネットで高まる「論破王」「頭がいい」といった称賛の嵐に、珍しく彼の自意識が肥大したような気がします。

基本的にひろゆきは「無痛」の人間で通ってますが、他人をコケにして面白いということは、それを妨害されて自分がターゲットになる、つまりコケにされたときに「苦痛」を感じるということになります。「イライラしない」人というのは、あらゆることに無関心の人間に限られます。そういう人は、傍から見ると、おそらくただの鬱に見えるでしょう。実際、鬱の人の中には、調理中に自分の手を切っても気にしない人もいるそうです。

私の考えでは、自殺していない以上は、生存している以上は、誰しもこの「自意識のゲーム」から完全に逃れることは叶いません。人は多かれ少なかれ、自意識過剰に陥らざるを得ないのです。そしてそうなったときに、儲け至上主義者たちが、かつて一笑に付して切り捨てた、「無価値な活動」の中に、人は、自らの自意識への慰めを見いださずにはいられないのではないでしょうか。それはちょうど、ひろゆきが「無意味な論戦」を挑み続けてしまった状況に似ています。ここに人生のジレンマがあります。

彼のニヒリスティックな意見の多くは、「低次の現実主義」のように私には感じます。人生はもっと複雑なはずです。

「末人の王」

否定的な意見を述べてきましたが、一方で、私はひろゆき自身は興味深い人物だと思います。あそこまで極端なニヒリズムを披露する人間は稀であり、「末人の王」である彼の言葉は、ある意味で、現代の時代精神の具現化であるとも言えます。さらに数々のビジネスを渡り歩いて培われた分析力やノウハウ。何より、あのトーク力は驚異的です。少なくとも日本のYouTubeで彼より喋れる人間はいないでしょう。彼の発言内容よりも、現代を生きる特異なトリックスターとしてのひろゆきに魅力を感じるというのも、また、偽りのない実感です。

だから私は、YouTubeで雨後のたけのこのように氾濫する切り抜き動画にはウンザリしつつも、これからの彼の動向には注目し、書籍などもできるだけ読んでいくと思います。(ヘッダー画像:ひろゆき『1%の努力』)

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初版:2021/08/07 ―― 改訂: 2021/08/24

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