引用とは構造の技巧であって、ただの借用ではない

2021/06/09 ・ 雑記 ・ By 秋山俊

なにも変えてはならない。すべてが違ったものとなるように。

Ne change rien, pour que tout soit différent.

ブレッソン

「引用」という技巧の意味は、一般的にほとんど誤解されている。

引用は多くの場合、言葉の「借用」か、せいぜい「援用」に過ぎないと思われている。ところがこれは大きな誤解である。

引用とは自分の文章の中に、他人の文章の構造をそのまま組み入れる、という構造的なトリックであって、これによって無数の意味が生まれる。

まず第一に、引用とは本質的にダブルミーニングである。すなわち「引用された言葉そのもの」と「引用元での文脈」を含んでいる。これを引用によってどのように活用するかは書き手次第だが、「過去にある文脈で語られた」という「言葉の履歴」(DNA)を含むその言葉は、既にそれだけで「初めて語られる言葉」より年長者であり、意味深長で、単に生で語られた言葉より情報量が多い。そして引用された言葉は、実を言えば、「それ本来の意味」で引用される必要すらないのである(!)。

より正確に言えば、書き手が引用元の言葉の意味を100%理解し、その文脈を100%再現した状態で使っているなんてことはあり得ないのだから、あらゆる引用は、程度の差こそあれ「誤用」である。しかしそれはある面においては、その言葉に隠れていた意味の「発見」でもあるのだ。

すべての機能が停止するやいなや、ただちにこうした断絶が生じ、声がその起源を失い、作者が自分自身の死を迎え、エクリチュールが始まるのである。

ロラン・バルト『作者の死』

第二に、引用によって文章は「私がまさに語っている現在の言葉」と「過去からやってきた他人の言葉」の二段構えによる構造を持ち、現在と過去、筆者と他者による立体的構造物となる。自分の言葉だけで語られた文章は、どうしても平面的で深度が浅くなりがちである。しかし引用によって、文章に「他人の文体」を直接組み込むことすら可能になるのである。

引用には力がある。

大江健三郎『私という小説家の作り方』

第三に、それはある儀式的な意味を持つ。これの筆頭はエピグラフ(冒頭引用)である。エピグラフには、仮にその内容が意味不明でも、文章全体にある種の呪術的な神秘性や問いかけ、解釈の新たな足がかりなどを残すからである。これは映画技法で言えばモンタージュのようなもので、ただの男の散歩の場面に「泣いた少女」の映像が一瞬挿入されるだけで、途端にその平凡な散歩には何らかの悲劇性や深い意味合いが感じられるのに似ている。引用は、引用したという事実そのものについて考えさせる。

ここを過ぎて悲しみの市。

太宰治『道化の華』のエピグラフ
ダンテ『神曲』からの引用

第四に、引用とはある種の社会的行為である。つまり文章というのはそのままだと、「自意識過剰の人間が不意にわめき始める孤独な演説」のようなものに過ぎない。しかし引用をすることによって、その文章は社会に接続される。人間のDNAが連綿と続いて受け継がれ、完全に断裂し孤立した人間が存在しないように、文もまた、文である以上は過去の膨大な書のアーカイヴと、何らかの形で関わっているはずなのだ。

もっと正直に言えば、引用とは、文章へのラブレターである。つまり引用元の文章に「関わっている」というより、「関わりたい」のだ。またそれは読者を、さらなる別の文章へと招待する「開かれた文章」への道でもあるだろう。

すべての言葉は既に作られており、あなたは他人が創造した言葉を“引用”することによってしか口を開けない。

あらゆる言葉は、すでに言葉になっている。

押井守『押井守の映画 50年50本』

実を言えばすべての言葉は“引用”であり、あとはそれを、どれだけ自覚的に行い、操作するかの違いでしかない。

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初版:2021/06/09 ―― 改訂: 2021/08/24

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