投稿日時:2018/11/28 ― 最終更新:2019/04/13

自らの凡作がなぜ空前の大ヒットとなったのか、山中には全く理解できなかった。山中は作家である。しかし27歳にして、面白い作品をちっとも書けぬどころか、本人すらヒットを生み出せるとは毛ほども信じてはいなかった。そもそも彼は文章を書くのが好きではないし、読むのは専ら漫画で、文筆業は単に自分は作家だと気取ってみせるためのファッションに過ぎない。彼の親戚が出版業で立派な地位にあるので、そのコネを最大限利用して、家族以外は誰も買わない小説を数本リリースしただけである。

しかし今や、彼の作品がメディアに取り上げられない日はないのであり、今日も行く先々で記者たちがハイエナの如く彼の前に群がる。一体全体、これはどうしたことか。

事の始まりは、彼の作家人生で3本目となる大凡作『死海文書とピカソの葬列』が書店の片隅に並べられてから、2ヶ月が経った頃だった。このタイトル、一見世界の裏に隠された謎と陰謀を廻る、思想と宗教と哲学が絡み合う壮大なテーマを思わせるが、単にネットで拾ったキーワードを出鱈目に組み合わせて、それっぽく見えたやつを表題にしただけである。山中は宗教も芸術も全く解さないが『新世紀エヴァンゲリオン』や『テラフォーマーズ』は好きであった。とにかくWikipediaで拾った宗教や陰謀論のキーワードをひたすら散りばめながら、デコラティブでがらんどうな議論の応酬、流行りの要素の全部盛り、その場で思いついたどんでん返しの連続でページを水増しして、何とか刊行にこぎ着けたのである。

しかしどういうわけか、1人の著名な文学者がこの作品について斬新な解釈をした論文を発表し、さらにそれをネットで拡散して人々の関心を誘った。その解釈というのが、この作品は表面上は全く平坦でありふれた描写を続けながらも、その裏では巧妙なメッセージやメタファーが幾重にも張り巡らされており、普段着のままの平凡な文章の裏で退廃、堕落、禁忌への賛美が大蛇の如くのたうちまわっている、究極の暗黒小説だというのである。恐ろしいことを恐ろしく書き、タブーをタブーとして描写することは誰でもできるが、まるで公園を散歩するかのような素振りで目も背けたくなるような悪虐を描くのは、まさに天賦の筆致。悪魔というのが実在すれば、このような純朴な外観に底なしの悪意が同居しているのかもしれぬ、とまで言い放った。そして人々もその解釈を踏まえて作品を読むと、作者の悪魔的才能が存分に感じられ、日本五大奇書に数えていいと大絶賛した。

困惑したのは作者の山中である。もちろんそんな大層な仕掛けなど、全く意図していない。ただダラダラと、自分でも意味の分からない描写で原稿を埋めていただけだ。しかし件の教授が言うには、この作品の真のテーマはSMと食人と近親相姦だというのである。良識ある読者が教授の解釈をもとにして怖いもの見たさに読むと、ただちに吐き気をもよおした。おかげで友人と恋人は山中から離れていき、代わりに気色悪いファンレターが山ほど届き、カルト教団の団員が自宅を訪問してくることまであった。

すっかりキワモノの変態作家扱いされ、連日のように自分が知りもしないモチーフだとかメタファーだとかについて取材を受けるうちに、彼はとうとう精神的に参ってしまい、その教授の家を直接訪問して論文の撤回を求めた。さすがに作者の俺に直接否定されれば何も言えず、慌てて自説を取り下げるに違いない。何しろ作者の考えていない意図やテーマなど、作品中にあるわけないのだから。そんなの小学生でも理解できることだ。

しかし教授の回答は驚くべきものだった。曰く、お前ごときにこのテクストの何が分かる!ロラン・バルトが「作者の死」を宣言したように、現代のテクスト論において作者など、テクストに参与した要素の一つに過ぎぬ。作者は同時代の様々な要素や執筆環境などの影響を受けて、自分でも理解していない多くの隠された意図をテクストに埋め込むのであり、それに作者がどれだけ意識的であったかは定かではないのだ。おまえが「赤いスポーツカーが駆けて行くのを見た」と何気なく描写したとき、なぜ赤なのか、なぜスポーツカーなのか、その必然を説明できるかね?現代の心理学的説明では、これらは一種のセックスの暗示であり、赤色に対して性的な魅力を感じることは実験でも立証されておる。だがテクストにとっては表現され解釈されることこそが重要で、作者の自覚など問題ではないのだ。つまりテクストを世に送り出した時点で、お前はもう死んでいる!この程度のテクスト論は、今どき学部生でも理解しているぞ、とまで言ってのけ、山中を追い返した。

山中は衝撃を受けた。そんなことがあるというのか。作者は神だったのではないのか。しかし反論できるような気力も教養も持ち合わせていなかったので、そのまますごすごと引き返すしかなかった。

しばらくすると、アメリカやイギリスを始め、世界各地から翻訳版が発売されたという知らせが次々に届いた。何ということだ。宗教ワードを入れまくり、調子に乗って脈絡もなく『出エジプト』や『マタイによる福音書』を無節操に引用したが、さすがに本国のやつらにはハッタリが露見するかもしれぬ。下手したらクレームが大量に届くんじゃないか。山中はそう危惧したが、全くの杞憂で他国でも大ヒットした。それどころか、中には作中における彼の宗教の描き方を新解釈として絶賛する人まで現れ、英語版の帯にはどこぞの有名作家や評論家からの”Five out of Five”やら”Amazing. Just, amazing.”といった推薦文が踊った。なんだ、あいつらも適当に読んでいるだけじゃないか、と山中は安堵した。

受験シーズンが到来すると、流行に敏感な国語教師たちによって、彼の文章が現代文の読解問題として採用され始めた。ところが「この人物の心境として最も適切な選択肢を選べ」といった問題を、作者である山中自身がさっぱり解くことができない。中には「作者の意図」を問う問題もあったが、もちろん解けず、逆に国語教師の用意した模範回答に、そうだったのか!と膝を叩いて感動してしまうこともあった。

ここまで来ると、いよいよ彼も教授の言っていた言葉を信じざるを得ないようになってきた。今更になって例の論文をじっくり読んでみると、たしかに自分の作品には退廃的な要素が散りばめられており、教授の示した解釈以外に理解のしようがないようにすら思える。そして教授の言うことが本当なら、俺には性に関する倒錯した願望があるに違いない。それを自覚せずに表現していたのだ。宗教の解釈も、国語の問題も、きっと俺が無自覚なだけで、彼らの言うような意味があるのだ。

山中は立ち上がり、髪の毛を両手で思いっきり掻き回し、蓬髪の出で立ちを作ってから、ナイフを手に取り、自らの手首に切り傷を入れた。次に出版社に電話をかけ、素晴らしいアイディアがある、これは間違いなく前作を超える傑作になると、今まさに海を切り裂かんとするモーセの如き確信に満ちた口調で、一方的に宣言し、一方的に電話を切った。最後に山中は関係者を集めて記者会見を開いた。しばらく口を閉ざしていた気鋭の作家の緊急会見に、何事かと記者たちが詰めかけた。その場に山中は、わざとみすぼらしく無造作に和服を羽織った、いかにも無銭の文筆家といった装いで悠然と姿を現した。顔にはサングラスをかけていた。

諸君、私はたった今から次なる作品の執筆に取りかかる。この作品はまだ、最初の原稿に墨一つ垂れていない白紙の状態にある。しかし全てのアイディアは私の脳の奥で既に完成しており、それらはただ出力され、印刷されるのを待っているだけである。私はこの作品を、只今より一気呵成に書き上げる。この作品は前作を遥かに超える大作である。しかしあまりにも難解なテーマとなるため、これが人の世で理解されるのか、私も甚だ心許ない。私は全力を尽くす。その後でこれが傑作と評されるか、稀代の愚策に終わるかは、読者次第である。

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