投稿日時:2018/11/26 ― 最終更新:2019/01/06

Nは大学内でも極めて頭脳明晰な男であった。18歳にしてこれほどの知性、人間観察の鋭さ、先見の明を持つ人間には、直樹はそれまで会ったことがないと言っていい。勉強漬けの18年間を送ってきた学生が集うこの大学においては、男子学生たちはまだ脇が甘い。可憐な女子に少しでも空世辞を並べられるだけで、すぐデレデレしてしまう。よく言えば純情、悪く言えばウブなのである。

ところがNはそのような他学生とは一線を画していた。彼は人の行動の裏にある意図を読み取ることを常に怠らず、己の願望が判断力を鈍らせることに細心の注意を払っていた。鋭敏なる頭脳に従う冷徹な精神。例えば教室にいれば誰もが注目せざるを得ないような美女が「Nくん!」と、いかにも恋心をくすぐる声色でNに話しかけ、それなりに会話が盛り上がったとする。その後でNに、いい感じだったじゃないか、と話しかけても、彼は首を振ってこう答えるのだ。「あれは邪悪」

似たような場面に直樹は何度か遭遇した。言い忘れていたが、Nはハンサムで背も高く、嫌味のない良いヤツなので、当然のようにモテる。しかし必ずしも順調な恋愛経験を積んでいるとは言えなかった。入学してしばらくして彼女ができたが、間もなく破局を迎えてしまった。彼の友人たちの中には、なぜNのような男が恋愛を謳歌していないのか不思議に思う者もいた。しかし直樹にはNが恋愛に苦戦するのも、また当然であるかのような気がしたのである。

Nはあまりにも頭脳が優れているがために、様々なことに対して現実的な分析・解剖を適用してその裏側に働いている力学を見透かしてしまい、ロマンを感じることができなかった。また人の思考に過敏であり、未来が見えるが故に、決断に際し二の足を踏んでしまうことが多かった。そしてその明晰なる頭脳で熟考を重ね、様々なケースを想定し、他人の数手先まで読んだ結果、動くのはリスクが高いので何もしない、という結論に着地することが多かったのだ。熱心なアプローチを受け乗り気であった際も、ひたすら様子見を重ねた結果ご破算になった。早い話が、優柔不断であった。怖がりであった。

彼の頭脳がその怖がりな本性ゆえに鍛えられたものなのか、優秀な頭脳を持つがゆえに怖がりになったのか、それは直樹には判然としない。卵が先か鶏が先かは不明だが、確かなことは、Nの中には既に、強い警戒心ゆえに思考を重ね、その思考が鋭くなるほど無数のリスクの幻影が見えてしまい、ますます警戒心を強めるという円環の鎖が完成していることであった。

思うに、Nという複雑かつ高度に発達した精神が脳髄に棲みつくには、ヒトという動物の肉体はあまりに繊細で臆病に作られていたのだ。ジャングルの時代に発達した警戒心が、未だに我々の精神を束縛している。しかし人が積極的に生きるには、もっと鈍感力のようなものが必要とされているのである。もちろんNも頭ではそんなこと分りきっているので、直樹が助言できることなど何もなかった。案外、古代の人類には現代人より頭脳明晰で感受性豊かな者が多かったかもしれない。しかしあまりに賢すぎても動物的本能とのバランスが悪く、子孫を残せないのではないか。

しかしN自身は、常に恋人を欲していたのだ。ある日のこと、直樹は彼に気がありそうな女子が手持ち無沙汰にしているのを見つけて、おい、ちょっと話しかけてみたら、とNを小突いて煽ったことがあったが、少し考えてやはり彼は首を横に振るばかりであった。

もう10年くらい経てば、彼は傑物になっているかもしれない。

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