「コミュ力」とは何か

2021/02/21 ・ 雑記 ・ By 秋山俊
ハマスホイ《ピアノを弾く妻イーダのいる室内》

「コミュ力」ほど曖昧で、人によって意味合いが異なる言葉もなかなかない。いわゆるバズワードである。結局のところ人によって何が大切なのか異なるので「私にとっては~だ」ということしか語り得ない。

しかしそれでもあえて語るなら、「コミュ力」とは、他人の立場に配慮しながらモノを言う能力であり、相手との距離を適切に保つ能力である。そしてそれによって、自分が望む関係性を維持する能力である。好きな相手には心地よい近さを保ち、近づきすぎてはいけない相手には適切な距離を保つ。自分にとって大切な人から白い眼を向けられない力。それが「コミュ力」だと思う。

だから私は、どんな相手に対しても無闇に距離を詰めようとする相手を、その物腰が一見どんなに柔らかくとも、決して「コミュ力」が高いとは思わない。彼の一見高そうな「コミュ力」は、単に距離感や共感に対する愚鈍から来ており、無差別な接近はほとんどテロである。

いわゆる「陽キャ」がコミュニケーション強者と認識される傾向があるが、コミュニケーションが好きなこと、遠慮がないこと、達者であること、これらはすべて別物である。下手の横好きはいくらでもいる。誰にでも豪快に接近してくる大阪のおばさんの「コミュ力」が高いかは疑わしい。逆にあまり人に関わらないからといって、その人の「コミュ力」が低いとも限らない。

またグループの統率に必要なのは、時にはむしろ「政治力」であり、「政治力」と「コミュ力」に全然相関関係が見当たらないことは、昨今の政治家の度重なる失言を見ていても明らかである。グループを仕切る人間はしばしば横暴であり、そのような人は、むしろ、距離感や共感の鈍さによって統率を実現している。

相手を想うあまり、距離を詰めすぎて白眼視されることは、人間が抱える悲劇の1つである。誰にだってそういう苦い過去がある。おそらく多くの人は、自分が考えているほどにはコミュニケーションが得意ではない。私の「コミュ力」も全然褒められたものではない。私に話しかけてきたあの人だってきっとそうだ。磨くことももちろん大切だが、相手に対する寛容さも大切なのだと思う。なんとなれば我々は、みな未熟者なのだから。

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投稿: 2021/02/21 ― 更新: 2021/02/22
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