動画メディアのこれから――そして再び、「ラジオ」の時代へ

2020/12/29 ・ 雑記 ・ By 秋山俊

多くの人はYouTubeの急激な流行を見て「これからは誰もが『TV』に出る時代だ」と思っているようだ。

私はむしろ、「『ラジオ』の時代」ではないかと思う。特に発信者にとっては。ここでいうカッコ付きの「ラジオ」とは「音声中心で成立させるコンテンツ」という意味合いである。

「ラジオ」の圧倒的発信力

「TV」のハードルは低くない

YouTubeを少しでもやれば分かるが、YouTubeをあたかも「TV」のように機能させるのは、様々な問題やコストが伴う。YouTubeで本格的に「TV」を行うなら、自宅の一室をYouTube部屋として確保するくらいの勢いが必要で、編集時も画と音声を同期させなければならない都合上、かなり制限がかかる。

また日本人の多くはシャイで、顔を出した途端にあっという間にSNSでばら撒かれ、同僚にニキビをバカにされ、「バルス」と言っただけで裏垢で一生叩かれ、二親等以内の親族まで漏れなくトバっちりを受けるディストピア的最終村社会に住んでいると確信しているため、顔を出すことに抵抗感を覚える人が多く、反政府レジスタンスのように首から上は映したがらない。

「ラジオ」は「音声ブログ」くらいの気軽さ

それに対して音声のみの収録というのは、はるかに気軽で、コストが少なく、かつ素早く収録できるという利点がある。「ラジオ」は圧倒的に身軽で自由なのである。追加収録や編集が容易だし、究極、リスナーに電話するような感覚で、道端でスマホを出して発信することもできる。そして動画メディアで音声だけ収録するのはいかん、というキマリはないのである。

そのため手を出しやすいのは「ラジオ」で、総再生回数では「TV」が上回るかもしれないが、発信手段として大勢を占めるのは「ラジオ」になるのではないか。これからしばらくは、2000年初頭におけるブログの隆盛と同じような感じで、人々が「ラジオ」に手を出していくだろう。

「ラジオ」は「TV」と融合する

音声メディアの上位互換である動画で「ラジオ」を行う都合上、「ラジオ」の定義は多様化し、「ラジオ」と「TV」の境は限りなく曖昧になっていくのも、ほぼ間違いない。というか既にそうなっている。

私の配信している「ラジオ」においても、手間もほとんどかからないから、画を10秒置きに流しつつ「視るラジオ」と銘打っている。いわゆる「ゆっくり解説」も、どちらかと言えば「ラジオ」に近いのではないかと思う。多くの場合、画は静止画が挿絵程度の感覚でつけられているに過ぎないからだ。他にも、本人は映さず、部屋にある、ぬいぐるみなどのオブジェを映しながら収録するのも「ラジオ」であると言える。

この「ラジオ」から「視るラジオ」への変化は、「詩」が「散文詩」に変化したのと似ている。韻を踏み、文字数に制限を設けることで保たれていた詩の輪郭とフォーマットは、しかし、散文詩として文章の海に溶け込むことで消え去った。「それにこだわる必要が果たしてあるのか」という問いである。最終的には作者と鑑賞者が、それを詩と認識するかどうかのみが問題となる。

バグルスはかつて『ラジオスターの悲劇』で「ビデオがラジオスターを殺したんだ」と歌った。しかし今世紀においては、ビデオと融合を果たした新たな「ラジオ」の集団が、放送局の流すTVという、旧世界の神を各地で着々と殺し始めている。(ヘッダー画像:バグルス『ラジオスターの悲劇』)

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初版:2020/12/29 ―― 改訂: 2021/11/21

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