「何が嫌いか」こそが自分を雄弁に語る社会

2020/12/22 ・ 雑記 ・ By 秋山俊
西公平『ツギハギ漂流作家』3巻

何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ!!!

この有名なセリフは、少年ジャンプの不朽の迷作として語り継がれる『ツギハギ漂流作家』内の発言であり、その純情であることを一瞬足りとて後悔しない、真一文字なコトバの力は、今なお我々の胸に残響を残し続けている。ああ、私だってそうありたいものだ。ところが今の世の中は、「何が嫌いか」で自分の立場を表さないと、何も言ったことにならないような社会になっているのだ。

つまり我々は、あらゆることに相対的な尺度が求められる社会で、全てのことに配慮を要求されており、「彼らの言うことももっともだ(私は違うことをするけど)」「我社は○○を応援しております」という破邪の呪文を年中唱えながら、耳なし芳一のように始終魔除けをしてネットサーフィン(死語)をせねばならず、そのような1億総総花社会において「いいね」「アイ・ラヴ・ユー」「私はそれが嫌いではない」といった無難な言葉は、「レモンに含まれるビタミンCはレモン1個分」とか「“らりるれろ”だとぉ!」と同じくらい、何にも意味しない空虚なドットののたうちと化してしまった。

共感ワードがハイパーインフレを起こした結果として、「死んじまえっ!」「アイ・ヘイチュー!」といった、中指を天へ突き刺すヘイトワードの価値が不当につり上がっており、世界中で「ぶっ壊す!ぶっ壊す!」と叫びまわるブレイク工業に笑いが止まらないほど注目が集まって大ブレイクを起こし、喉が破れるまで絶叫し続けた公約を1ミリも遵守しないデマゴーグが耳目を集めるようになった。

構造主義の副作用が地表全域に拡散した共感社会においては、共感、あるいは「好きの表明」は、もはや空気のように大気中に充溢しきっているため、特別な文脈を持たせなければ価値がない。つまり「○○が好きだ」と言っているだけでは、もはや自分を十分語れない社会になってきているのである。

このように書くと、いかにも私が、米国のトランプ大統領のような扇動政治家を批判したいのだろうと速断されるかもしれないが、そうではない。ここで私が問題にしているのは、一般市民同士のコミュニケーションにおいても、「何が嫌いか」を意識的に宣言しなければ、自分の人物像や立場、そして信頼性を他者に十分伝えることができなくなっている、ということである。

基本的に「好き」の裏返しとして「嫌い」が存在し、「嫌い」という感情は「好き」なモノへの侵略者に対して抱く感情であるため、「何でも好きだが、何にも嫌いではない」ということはあり得ない(全てに対して無関心、ならあり得る)。したがって我々は、したたかに生きることを決心した女子大生がサークル仲間に言いふらしまくる「私、嫌いな人っていないの」のようなフレーズを聞いたとき、その発言主を即座に「信用に値しない人リスト」に加えねばならない。

先程も書いた通り、現代社会では「好き」という言葉の価値が暴落する一方、「嫌い」の価値がビットコイン並に高騰しており、また言葉の価値は市場取引のように流通量や希少性で決まるため、「嫌い」を表明できる人間が価値ある存在になっている。これは必ずしもネガティブな意味で書いているのではないし、「嫌い」宣言を私が嫌っているわけでもない。むしろ我々は、この「言葉の市場原理」を理解した上で、誠実に、そして戦略的に「嫌い」を表明すべきなのである。

何かを嫌うこと自体は、全く恥でも不道徳でもない。何故なら我々は、何かを嫌うことなしに、何者も好きにはなれないからである。それは全く自然で健康な人間の反応だ。

現実社会の身分を背負ったまま「嫌い」を表明できる人間は簡単には増えない。少なくとも目下のところは。なぜなら「嫌うことで嫌われる」ことへの勇気は、人間には早々生まれないからである。ならば「嫌い」をキッパリ言える人の価値は、当分は高止まりということだ。

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投稿: 2020/12/22
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