Google Mapをドブに捨てて約束の場所でうほほーいっ!

2020/12/05 ・ 雑記 ・ By 秋山俊

Google Mapは便利である。あまりにも便利である。

私もしょっちゅう使うし、未だに紙の地図を広げては「紙の方がかえってわかりやすいのよ」と言い張る私の母(単にデバイス使えないだけ)に対し「いや、Google Mapの破壊的利便性は、紙の良さがあるとか、人それぞれとか、既にそういう個々の相対主義に回収される次元じゃないから」と苦言を呈するほどである。

しかし、しかしである。

ときには、私だって思う。

「文明の利器に溺れて、僕たちは大切なものを失ってしまったのだ……」

そう、「迷う素晴らしさ」というのもあるのだ。なぜなら人生とはさまよい歩くことであり、幸福とは、簡単に手に入らないものが、出し抜けに訪れることだからだ。

もし君が、記憶だけを頼りにさまよい歩いて「この道には見覚えがある……」「たしかこの辺りに“あの光景”が広がっているはずなのだが……」と思ったら、決して、決して、Google Mapに手を伸ばしてはいけない。今すぐスマホをドブに捨てるんだ。いや、それだと帰り道に困るかもしれないから、百歩譲ってGoogle Mapをアンインストールするのだ。誘惑を断つのです!

あの“尊い瞬間”は、Google Mapを開いた者には、決して訪れないのだ。それは不意に訪れなければならないんだ!打算と計画性の中で出会ってはいけないんだ!決して、決して!

万里を練り歩き、かく必要もない汗をかき、不確かな記憶と目前の光景をなんども整合した末に、あの“尊い瞬間”が訪れるのだ……!視界がバァっと開け、視野が広角になり、木々は風にザワザワと揺れて、長く使っていなかった脳細胞たちが息づきはじめる、“あの瞬間”が……

***

中学に上がったときから、私は御茶ノ水をよく訪れていた。しかしそのときの記憶を、すっかり忘れていた期間もあったのだ。

大人になってから、もうすっかり完成した明治大学のリバティータワー周辺を巡り、私は“あの場所”を探していた。セピア色に退色した記憶を辿りながら、何度も何度も「そう、この場所には見覚えがある」「この場所を曲がると……あれ、違うな」などと内心つぶやきながら。

御茶ノ水の坂を下って神保町のあたりに入ると、狭い路地や似通った通りも多く、思い出というのはなかなか信用が置けない。うっかりすると歩き疲れた末にゲーセン「ミッキー」にたどり着いてしまい、そこで『新入社員とおるくん』を遊ぶことでお茶を濁して帰る、という誘惑にも駆られてしまうのである……(ミッキーはもう潰れたけど)

しかしそんな誘惑に抗いながら道を歩き続けていると、“その瞬間”は、まるで天からの報酬のように、不意に訪れるのさ。

角を曲がり、突然にその光景を見た瞬間、視界がひらける。古い脳細胞たちが思い出したように呼吸を始める。

そう、その場所は、まだ小さいときに、今では死んだ親父が私を連れて歩いた場所で、歩き疲れた私は、近くのうどん屋で昼食を……

私はその瞬間が訪れると、全身虚脱に襲われて、ガクッと膝をつき「あぁ、あぁ……ッ!」と、ソロモンの裁きを目撃した民衆のように惚けてしまうのさ。

「この場所は……あぁっ!この場所はぁっ…はうぁ!あぁあの時のぉ……ほほぉぅ!」
「ちょっとお兄ちゃん、大丈夫かい?」
「そうだ。…t, たしかにぃ、あのぉb場所だぁ……あの時親父と歩いてぇ……まだ木々が青々…ぅt…してぇ!夏の木漏れ日ぃ……あぁ、あぁ…あのb、あの場所……ブホ…うほぉぉ…ブほほぉいぃ!」

***

君だって本当は分かっているはずさ。Google Mapを手にして僕たちが失ってしまった大切なものを。

だから心してほしい。ここぞというときには、Google Mapを捨てたまえ。それが大切な思い出の扉を開くための鍵なんだ。あの時の感情を、あの時の感動を。君だって分かっているはずだ。僕だって、みんなだって分かっているはずだ。

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投稿: 2020/12/05
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