バカとはなにか

2020/09/15 ・ 雑記 ・ By 秋山俊
“バカは自分がバカだと気づけないからこそバカなのだ”――匿名掲示板の名無し

おしなべて人は、100のバカさを搭載する存在、すなわち「100バカ」としてこの世に生を受ける。ここから長じて、自分がどれだけバカであるかを、心の底から認められるか、それによってバカさ加減が決まる。

だから「オレは40くらいバカだ」と認められる人は、100から40減算して「60バカ」になることができる。「60バカ」は「でも60くらい頭が良いな」と自惚れているからこそ、その自惚れの分だけ未だにバカから逃れることかなわない。60ほどバカだと認められれば「40バカ」まで賢くなり、80までバカだと認められれば「20バカ」という高みに達する。ここまで行けば、人類としては高等の存在ということになる。「10バカ」に至れば、ほとんどソクラテスである。

しかし再度強調すれば、「認める」というのは、まさしく「腹の奥底から思い知る」という意味であり、過剰に謙遜する大女優のように「私などまだまだです。私は80ものバカを有しております」などと、他人の目の前でわざとらしく頭を垂れて地面に墜落し、謙虚な「20バカ」を演じて見せる人間は、もれなく本物の「80バカ」なのである。

これを書いている私自身も、自分はかなりのバカだと自惚れているが、しかし今述べたように、自分をバカだと宣言するやつは、自己言及の呪いによってさらなるバカ、すなわち「自分をバカだと謙遜してみせるバカ」へと無限降下するという陥穽から逃れ得ないので、人は自分のバカさ加減について問われれば沈黙するより他にない。

この論理に従えば、では人はみな、自分が100ほどバカであることを承認さえすれば良い、と考える人もあるかもしれない。しかし「0バカになる」ことは「ガス管をくわえる」ことと、ほとんど同時的である。偉大なる文豪や哲学者たちが、我先にと川に飛び込んだり、睡眠薬を一気飲みしてみせるのは、彼らが真の賢者であるが故なのだ。

人は自惚れがなければ生きていけない。三島由紀夫が『不道徳教育講座』の中で「自惚れというものがまるでなかったら、この世に大して楽しみはありますまい」と述べているように、人は自惚れや楽観があるからこそ生きていられるし、楽しみも味わえる。人は誰しも、ここだけはバカ・低能だと認めるわけにはいかない、プライドとか願望とかいう名の最終陣地を残しており、その陣地の中で快楽を味わうのである(つまり人のバカさ加減とは、その最終陣地の面積で決まる)。

「幸せって、あったかくなった股間のことだよ、ママ!」(バン、バン!出せ、出せー!)――ザ・ビートルズ

だから現代人は、自分のバカさ加減を必要以上に恥じることはない。賢者のDNAなど、先の世紀でとっくに死に絶えた。何故なら賢者であるほど子孫を残す前に「0バカ」の境地に達してしまい、死が観念に過ぎないことを了解し、慌てて自分を土に埋め、バカと苦痛に満ちた世界から脱出するからだ。

現生人類より脳が大きいヒト属が死に絶えた理由は、我々が有する、生存と団結に都合の良い適度な愚かさや臆病さを、より強靭な脳を搭載した種は持ち合わせなかったからではないかと、私は推測している。知性は必ずしも脳容量に比例しないが、人類の脳容量が3万年で10%も縮小していることは示唆的である。

ついでに生命が生きることに強く執着する事態を解釈すると、それは「あらゆる生命には生き続けようとする意志がある」という道徳的方便からではなく、「生存に執着しない生命はさっさとくたばって、子孫を残さなかった」という、冷酷なる消去法の結果と考えられる。

こうして賢者は死滅し、多かれ少なかれバカである我々に地上を押し付け、天上へと去った。適者生存。Natural Order。我々は一人残らずあんぽんたん。難しく考えるな。賢くなり過ぎるな。死に急ぐな。バカ同士仲良くしようではないか。我々を冷笑する賢者どもはもういない。適度に死を恐れ、つけ込まれない程度に愚昧であり続け、ハピネスを追い求めよ。さすればテクノロジーの現世は必ずや微笑む。君の人生もインスタ映えするぞ。

しかして我々に残された課題は「どうすればバカでなくなるか」ではなく「どれほどのバカさを残すのが最適か」に過ぎない。「80バカ」は惨めに過ぎるが、「20バカ」も賢すぎて生きづらい。

いっそのことオールインして「100バカ」として悟りを開き、糞尿の中を笑顔で転げ回る豚的快楽に耽溺するべきではないかという考えは、この消費主義の世の中において、常に我々を魅了してやまないが、「100バカ」の境地を一度でも脱するともう不可逆なのだ。実に、子供が幸福なのは「100バカ」であるが故であり、再度この境地に戻るには、ニーチェのように究極の域まで哲学を極め、「0バカ」の特異点をさらに通過し「100バカ」まで知性反転するしかないのである。

私が人間であるというのは偏見です。

私はインドに居たころは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。アレクサンドロス大王とカエサルは私の化身ですし、ヴォルテールとナポレオンだったこともあります。リヒャルト・ヴァーグナーだったことがあるような気もしないではありません。十字架にかけられたこともあります。

愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより

ニーチェの手紙

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投稿: 2020/09/15 ― 更新: 2020/09/16
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