「手に入らない」と「欲しい」の関係について

2020/08/15 ・ 雑記 ・ By 秋山俊
セザンヌ、『カード遊びをする人々』

私の認識だと、何かが「欲しい」という欲求は「手に入らない」という状態の結果生まれるものであって、その逆はないのである。これは当たり前のことにも思えるが、だからこそ「欲しい」のに「手に入らない」という“あべこべ”な関係はない。

同様に「分からない」と「知りたい」の関係にも同じことが言える。

この2つのどちらが原因でどちらが結果なのか、というのは普段あまり気にする必要はないのだが、状況によっては決定的な意味を持っている。

この関数を知っていれば、欲しかった本を買ったそばから積んでしまうとか、手品の種を知ってつまらなくなるとか、すごく興味を持っていた人物の実情を知って関心が失せるというのは、本当に、全く当然のことだと思うし、幸せというものが、訪れる瞬間にピークを迎えて、途端に下降線を描くのも、なんの不思議もないことだと思う。

「欲しい」というのは「手に入らない」という“だけのことに過ぎない”のである。

逆に言えば、全然価値がないものでも手に入らなければ欲しくなるし、なんの内容もないものでも隠されれば知りたくなる、ということでもある。

もっと言うと、人が「欲しい」と感じるものは、本来的には「どうでもいいもの」であり、あるものの「価値=欲しさ」というのは「どれだけ手に入らないか」によって生じるに過ぎない。だから酸素を欲しがる健常人もいなければ、裸に興奮を覚えない文明人もいないのである。

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投稿: 2020/08/15
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