映画界にデタラメ翻訳が存在する理由

2020/07/25 ・ 雑記 ・ By 秋山俊
『ロード・オブ・ザ・リング』

たとえば、文学作品の翻訳は学者が手掛ける。その翻訳は学問の一部である。単なる和訳ではなく、作品解釈も内包した注釈書としての機能も持っており、アーカイブの一部として研究史に寄与する。その訳は読み手によって旧訳と常に比較される。いい加減な翻訳をしてはコケンどころか生活に関わる。だからこそ、文学の世界ではまともな翻訳が流通する。

一方、映画の翻訳権はただの商売人が握り、商業的に最も都合の良い翻訳家が選ばれる。簡単に言えば「納期を守る人間」「頼みやすい人間」である。そこでは翻訳の質などというものは二の次であり、というか関係者の誰もそんなもの分からない可能性すらある。映画は映画館でしか観ないことも多く、セリフは一瞬で流れるので検証がしにくい。

結果として「高速で雑に仕上げる人間」が重宝され、日本人のほとんどがリスニングで意味を理解できないのをいいことに、ときに完全にデタラメな内容、全くの勘違い、分からないから辞書の意味をコピペしただけの怪訳を垂れ流すことすらあった。

翻訳者側はこれへの反論として「字幕は文字制限が厳しいから仕方ない」とよく言うが、そんな次元では全くないただの誤訳、適当訳がいくらでもまかり通っている。それが映画業界の翻訳である。

そこでは映画史への貢献などというものは微塵も考慮されず、タイトルは「売れるかどうか」だけで決まる。とりわけ80年代の洋画邦題における「死霊の~」「悪魔の~」「~はらわた」といったタイトルの量産っぷりは凄まじく、最高に混乱させられる。『戦争のはらわた』に至っては完全に意味不明である。

また映画や音楽の世界では、決定権を持つ人間がヘタに気取った「オレのタイトル」を勝手につけて、作品を乗っ取る形で自らの「作家性」を発揮するというエゴ丸出しのケースすらあった。

しかしネット時代に入ってからはこのような悪行の認知度が高まり、実際に抗議活動に発展した例もあるため、配給会社もさすがに以前のような度を越したデタラメ翻訳はやりにくくなった。

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投稿: 2020/07/25 ― 更新: 2020/07/26
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