「代表作」の実際の意味

2020/07/19 ・ 雑記 ・ By 秋山俊
『大辞泉』

代表作【だいひょうさく】
ある時代・流派やある作者の、特徴を最もよく示している作品、またはその中で最もすぐれた作品。

『大辞泉』

上記の説明は実際とはかけ離れていて、現実には、ある作家や監督の「代表作」とは「作り手の作風や傾向を代表する作品」ではなく、「受け手にとって、その作家を代表する作品」なのである。

もう少し言えば一般受けした作品ということになる。

たとえば太宰治の「代表作」なるものと言えば『走れメロス』『人間失格』『斜陽』であろう。ところがこれらの小説、太宰作品としてはむしろ「異端作」に分類できる。

太宰治, 1909-1948

『走れメロス』は現実から離れたフィクションで、しかも古い時代の地中海周辺の、メロスとかいうよく分からん全裸男が主人公、かつ内容が異様に爽やかな教訓話という点で、異端中の異端。中期太宰の作品においては、主人公は太宰をモチーフにした「作家」で、舞台は日本の(当時における)現代というパターンがより一般的である。話の内容も、どこまで実話ベースか分からない、虚実皮膜なものが多い。

ところが『走れメロス』は内容がわかりやすい純粋な作り話で、文体も軽妙であり、「健全」な内容であるから教科書に載り続け、太宰の「代表作」となった。異端であるがゆえに太宰独特のクセが抜け、万人受けしやすいため、むしろ広く知られたのである。見方を変えれば「太宰らしさがあまり出ていない作品」と言える。

太宰治『走れメロス』

一方で『人間失格』『斜陽』は、太宰作品としては暗すぎる。しかも短編がほとんどの太宰に珍しい長編作品で、やはり異端。この二作品が暗いため、「太宰は暗い」というイメージが生まれたが、彼の創作の多くはコメディ要素を持ち、むしろ明るい。ダメ人間的な主人公の作家がボケをかます、というのが定番展開となっていた。

しかし、とりわけ『人間失格』は、直後の自殺が重なり「死の間際の作家の人生がそのまま顕れた小説」という「壮絶さ」と「わかりやすさ」がウケた。もちろん太宰が、そういった暗黒を抱えて生きていた人間というのは事実なのだが、暗黒の裏返しとしてのコメディアンであったのもまた事実なので、「暗い」というイメージばかり先行するのは誤解だと言いたい。

今度は映像作家で考えてみよう。ゴダールの代表作としてよく挙がるのは『勝手にしやがれ』『軽蔑』『気狂いピエロ』あたり。

が、これらはヌーヴェル・ヴァーグ全盛期の作品だけであり、彼の作家としての歩みを考えれば『中国女』のような政治映画も1本くらいは「代表作」に選出すべきである。しかし政治映画時代のゴダールは既に大衆からそっぽ向かれていたので、受け手にとっての「代表作」にはならないのである。『映画史』も同様。

ジャン=リュック・ゴダール, 1930-

逆にスピルバーグのような、作家として明らかに大衆ウケを意識し、それを作風にまで昇華させている映画監督なら、このような食い違いはあまり生じない。『ジョーズ』『E.T.』『インディ・ジョーンズ』あたりは名実ともにスピルバーグを代表していると思う。もちろん、彼は大衆作家というだけではないが。

「代表作」がその作家の集大成的な作品であるとは限らず、また最高傑作とも限らない。教科書に載った小説など問答無用で「代表作」扱いされてしまう。

結局、世に広まるには分かりさすさとか、賞とか、タイアップとかいった要素の方が重要なのであって、「代表作」というのは、単に世間におけるその作家の最大公約数に過ぎない。

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投稿: 2020/07/19 ― 更新: 2020/07/23
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