2021年11月22日 / 人間が

2021/11/23 ・ 日記 ・ By 秋山俊

どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿をみとめてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめてかかった考えです。

というのは、どんな人間でも、その真実の姿などというものは、不気味で、愛することの決してできないものだからです。これにはおそらく、ほとんど一つの例外もありません。

三島由紀夫
『不道徳教育講座』「告白するなかれ」

自分に属性が近い相手と親しい関係でいつづけるのは難しいのかもしれない。自分に近い存在は、近いがゆえに、その人のあらゆる行動に対して、行動の「手つき」が見えてしまう。行動や思考の「手つき」が可視化され、その動機があらわになっている人間ほどグロテスクな存在はない。したがって、わずかな期間だけ持っていた同族への共感は、そのまま反感へと変わってしまう。

私は、人間と人間をつなぎ続けるものは、能力でも相性でもなく、最終的には縁しかないと思う。

私は、人間が無限に深遠な存在だとは思わない。

むしろ、人間というのはどこまで行っても時代的な制約を受けている限定された存在で、その時代には、「その時代らしい人間」しか存在しない。50年後の未来には、テクノロジーが人間性をもっとラディカルに変え、現在にはいないような思考と態度を持った人がいるかもしれない。しかしそれは50年後の時代が今の我々から見て「特殊」な時代であって、その人間が特殊なのではない。

人間は限られた存在だが、奇妙なことに、人間が作り出す思考や問いかけは底が知れない。あるいは人間は、自分が解決できないような問題を生み出すことならできるのかもしれない。したがって人間は退屈を恐れる必要はない。

人間は問題解決力より問題生成(発見)能力の方が強い。問題があることは発見できるのに、解決ができない。

相手に対して高望みしたり、理想像ばかり強まるのも同様の問題で、お互いに「なんで自分の考えているような人間がいないんだろう」と考えていて、自分も相手もお互いの水準を満たすことができず、互いに軽蔑しあっている。

言葉の中にだけ無限がある。

初版:2021/11/23

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