2021年8月3日 / セミの自由

2021/08/05 ・ 日記 ・ By 秋山俊

ヒトが、薄命の象徴であるセミを見るたびに、人生の空虚さや、「自由」の意味について考えずにはいられないのはなぜだろうか。実際には、セミより短命な生命など、その辺にいくらでもいるだろう。だが、ほとんど目に入らない。したがって意識にも上らない。

他方でセミは違う。奴らほど激しく熱唱する生物は日本にいないから、嫌でも存在が目に入る。まるで「なぜオレだけが死ぬのだ?人類どもを道連れにせねば気が済まん」という意思でもあるかのように、ただでさえ地獄の酷暑なのに、マグマみたいな環境音を添えてくる。死んだら死んだで、日本中の路に地雷として散乱して、「おまえもいつかこうなるぞ」っと、人類を呪ってくる。

あれだけ存在を主張していたセミが、あっさりとくたばって、白い腹をそこら中で見せつけてくるから、人生で起こる全てのことをひと夏で実演して見せるから、忘れようとしていた運命を思い出してしまうのだろう。

最大限悪いように書いたが、私はセミが嫌いではない。むしろ、好きな方である。セミがいない夏の散歩は、暑いばかりでさぞ物足りないに違いない。ある夏、もし、突然セミたちが疫病で大量死してしまったら、彼らの鳴き声をイヤホンで聴きつつ散歩するくらいには必要としている。

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セミは、肉体そのものが知性であり精神であり、運命に抗うという発想を持たない。彼らはただ肉体として生き、本能を宝物のように見せびらかし、宿命を抱きかかえて死んでいく。肉体は彼らを閉じ込める牢獄とも言えるのだが、その牢獄こそがセミそのものでもあるので、ここで運命と意思は完全に同期していて、見方によっては全く「自由」な存在である。つまり、彼らは完全に思うがままに生きているからである。

弱くとも不自由なわけではない。薄命でも不幸なわけではない。片道切符で飛ぶ先が。

人も片道切符なのだ。

動画を直アップしてみる

夜、図書館の本を返した帰りにセミの幼虫を発見したので、撮影テスト。

19時58分撮影
巨人どもの静まりし夜そろそろと盗人のごときセミ忍び足

だいぶ前から、Webサイトやブログは、リッチメディアとテキストを、より積極的に融合する時代に入っている。その可能性を探りたい。YouTubeやPodcastとは違う、それ単体では成立しない「ショート動画/音声」の活用である。特に音声の方に可能性を感じる。

そもそも私は、勝手に消されたり評価をつけられたりするのが不自由で気に入らないので、可能であれば外部メディアは使いたくない。自分のコンテンツは全て自分で管理したいというのは、多くの管理者の望みだろう。

かつて、動画というのは自分でホストするには重すぎた。しかし現代のインフラは、以前には考えられなかったほど太くなっている。今や動画ファイルだけを、わざわざ他所に移す必要がない。今年に入ってから、大手レンタルサーバーはこぞって月あたりの転送量を倍増している。問題となるのはむしろWordPressなどのCMSを動かすためのリソースであり、転送量自体は、適切に節約すれば、おそらくほとんど問題にならない。

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読んだ本

初版:2021/08/05 ―― 改訂: 2021/08/11

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