2021年7月28日 / 日記こそ至高のWebコンテンツである

2021/07/28 ・ 日記 ・ By 秋山俊

1999年に初めて自分のWebサイトを作って以来、私は常に、Webコンテンツの始原にして至高のものは日記であると信じてきた。昔は、「いわゆる“ホームページ”を持つこと」とは、ほとんど「日記を書くこと」とイコールだった。

なぜなら、ただの一般市民がネットの広大な海に放り出されたときにまず行うことは、2000%くらいの確率で「クソどうでもいい日常」を、それがあたかも先人の使命であるがごとく書き残すことだったからだ。プロバイダのフリースペースだろうが、ブログだろうが、Twitterだろうが、YouTubeだろうが、あまねくサービスはまず、一般市民の何のひねりもない日常をアーカイヴするための、壮大なる“チラシの裏”としてその駆動を開始する。これはDNAに刻まれたホモ=サピエンスの本能と言ってよく、3千年紀に入ってから明らかになった、人間の新たな習性だった。

私が中2で初めて書いた日記も、ご多分に漏れず「同じクラスの○○君はアホだ」みたいな便所の落書きであった。

人類に手渡された新たなるテクノロジーを使って、一般人の「クソどうでもいい日常」を書き残す――これこそがWebの醍醐味であり、使命であった。いわゆるテキスト系サイトというヤツは、この無意味な日記を、ある種の娯楽や芸術まで高めようとするサイト群だったのである。

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ところがどのようなサービスも、開始して日数が経ち、ノウハウが蓄積され、人口に膾炙し、TVに映る、どっかのミスコンで優勝したっぽい女子アナが朝のゴシップ系ニュース番組でそのサービスを紹介する頃には、すっかり大衆汚染されてしまっているのだ。

そうして、素晴らしき「クソどうでもいい日常」たちは、地獄の軍団のようにWebの地平線から押し寄せてきた「コンテンツ性の高い有益な情報」の群れに轢き殺され、検索結果やサジェストはあっという間に「【2021年最新版】僕が本当におすすめするホラー映画5選!」みたいなファッキン・アフィリエイトコンテンツでいっぱいになる。

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だが私は、あえて言おう。

「クソどうでもいい日常」を書いた日記が好きだ。

「カテゴリの作り方も知らない映画マニアが、よくわからんが自分の知識を全投入して書いてる」みたいな野生のブログが好きだ。

「今日買ったトレカを開封」みたいな、何のコンテンツ性もない動画が大好きだ。

なぜなら「目的性の無さ」こそが人生だからだ。「目的がないこと」こそが自由であり、救いだからだ。

「目的を持ったコンテンツ」を前にして、私は身構えてしまう。こいつって、信用できるのか。「演出されたキャラ」なんじゃないのか。金儲けや宣伝のために、無責任な書いているだけなんじゃないのか。

ところが「クソどうでもいい日常」は違う。こいつは、安心できる。「地球上にいるどっかの誰かと、ネットを通じてクソどうでもいい日常(=剥き出しの現実)をシェアし、『インターネットって、世界中の人とつながってて、スゴイんだぁ……』という原初の感動を得る」ことができる。「クソどうでもいい日常」こそが、リアルであり、インターネットである。

ネットに跳梁跋扈する「有益なコンテンツ」どもに中指を突き立て、素晴らしき「クソどうでもいい日常」を書き綴れ。立ち上がるのだ。これは「国土回復運動レコンキスタ」である。

私はずっと「クソどうでもいい日常」を書きたかった。ここが私の故郷なのだ。

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私に呼応して日記を書き始める未来の同士たちのために、以下に、ネットにおける「クソどうでもいい日常」のお手本を引用しておこう。精進して欲しい。

4月10日(火)

昼飯のスパゲティナポリタンを眺めながら、積年の疑問を考えていた。それは「なぜナポリタンは赤いのだろうか」という問いである。

簡単に見えて、奥の深い問題だ。「赤いから赤いのだ」などとトートロジーを並べて悦に入る浅薄な人間もいるが、それは思考停止に他ならず、知性の敗北以外なにものでもない。

「赤方偏移」という現象がある。宇宙空間において、地球から高速に遠ざかる天体ほどドップラー効果により、そのスペクトル線が赤色の方に遷移するという現象である。

つまり、本来のナポリタンが何色であろうとも、ナポリタンが我々から高速で遠ざかっているとすれば、毒々しく赤く見えるはずなのだ。

目の前のナポリタンは高速で動いているか否か?それはナポリタンの反対側に回ってみることでわかる。運動の逆方向から観察することで、スペクトルは青方遷移し、青く見えるはずなのだ。

逆に回ってみたところ、ナポリタンは赤かった。よってこのナポリタンは高速移動をしていないと言える。

Dの嘘

初版:2021/07/28 ―― 改訂: 2021/08/09

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