2021年7月29日 / 私は誰か

2021/07/29 ・ 日記 ・ By 秋山俊

Qui suis-je? Si par exception je m’en rapportais à un adage : en effet pourquoi tout ne reviendrait-il pas à savoir qui je « hante »?

「私は誰か」――自分にしては珍しく格言に依れば、それはもう、「私は誰に“執着”しているか」という問いに帰着するのではあるまいか。

(訳註:「私は誰か(suis)」という文章は、フランス語だと「私は誰を追いかけている(suivre=suis)のか」という文章に、奇妙に一致する。)

アンドレ・ブルトン『ナジャ』

人は誰しも、多かれ少なかれ、「自分自身」を追いかけ、「こう在るべき自分」に執着し、「己のイメージ」を模倣している。自分自身に言及するとき、その内容は常に微妙に現実の自分とはズレている。ときに人は、自分の発言に現実の自分を合わせることにより、そのズレを修正し、自分を変化させていく。人は自分自身を記述し、記述された自分に従って自身を変化させる。

生まれてからしばらくは、DNAがそれを行ってくれる(ハードウェアの構築)。言葉を獲得してからは、自分で加筆修正するようになる(ソフトウェア・アップデート)。私の創造主とは、私自身に他ならない。

オスカー・ワイルドがアリストテレスに対抗して述べたように「芸術が人生を模倣する以上に、人生は芸術を模倣する」。芸術という大げさな言い方が腑に落ちないなら、「人生は“虚構”を模倣する」でもいい。

オスカー・ワイルド

私にとっての私、という“虚構”。昨日までの“虚構”が、徐々に現在の自分を侵食し、変形させ、いつしか“現実”になる。それを成長と呼んでもいい。人生とは自己創造の過程に他ならない。大げさな虚構の自分を打ち立て、ついにその虚構と同化してしまった寺山修司や三島由紀夫のような人物は、自分自身が1つの立派な「作品」でもあっただろう。

日記を書くという行為。それは自分の日々の行いを整理し、批評し、在るべき自分を準備する行為なのかもしれない。なぜならそれは、自分という視点から切り取られ、編集された行動記録なのだから。「ありのままの事実」を書くことなど不可能なのだから。私自身を追いかける私は、永遠に私に重なることはできないかもしれない。アキレスと亀のパラドックスのように。

初版:2021/07/29 ―― 改訂: 2021/07/31

同じテーマの記事を探す