2022年1月2日 / 月に吠える猫

一体どうしたと言うのだろう。このマンションには存在しないはずの猫が鳴いている。もう深夜2時だというのに、一向に飽きずに鳴いている。今は正月だから、きっと誰かの家にやってきた親戚が、自宅から猫を連れ込んだのだろう。猫が鳴き声をマンション中に響かせている。

頭上には真っ暗な空だ。姿は見えないが、こんなに夜中鳴き通している獣を見たら、きっと月に吠えているように見えるのだろう。周囲にはなんの影も見当たらないからだ。もっとも、この日は月も出ていなかったが。

猫はとうとう、朝日が昇るまで鳴き通していた。

(ヘッダー画像:大晦日、土手を散歩ついでに撮る)

2021年12月21日 / お待たせいたしました、と書店員は言った

書店にいたら店員が「お待たせいたしました」っと言って、ある客のもとへとやってきた。実際にはこんな落ち着いた様子で事が運んだわけではなく、「お待たせぇいたしましたぁぁぁ!」と大声をあげながら、恰幅のいい若い男がドカドカ走ってきた。チラリと見た限り、クリスマス関係の包装などをしていたのだと思われる。話し声も随分大きい。書店員にはいくぶん似合わない風采の、その大学生のアメフト選手みたいな店員は、少しばかりその客と話をしてからレジに戻っていった。

もしかしたらそのバイタリティあふれる態度を、他の店員から後でたしなめられたかもしれない。しかし私はなんだか面白いと思った。

書店員は大人しくて落ち着いて話すべし、という戒律があるわけでもない。むしろそういうステレオタイプな書店員を人は見飽きているのであって、八百屋みたいに威勢のいいその姿が、私には一般的な書店員の勤務態度に対する批評、もしくはパロディであるようにも思えた。

(ヘッダー画像: ブックオフで見つけた感想付きの『赤と黒』)

2021年12月11日 / 夕陽と終末

夕陽が落ちる直前の、空の重たいグラデーションが好きだ。天辺は黒に近い青色で、地上へ向けて明るく色が変化していく。

日没の不気味な鮮やかさは、まるで世界の破滅のようだ。1日のサイクル、人間の起床と睡眠、それらは人生の暗喩なのだという考えが、幼少期からずっと私を支配している。

私は眠り、起きることによって、毎日死んで毎日蘇る。それと同様に、日没と共に世界はいくども破滅する。私は数え切れないほどの世界の破滅に立ち会う。現実に物質的に破滅しなかったとしても、日没は確かに破滅に似た感動と郷愁を心の中に沸き立たせる。その瞬間は本当に美しく、この世界に生きていて良かったと心から思う数少ない瞬間の一つだ。破滅がもつ破壊性だけを取り除いて、終末の愉悦だけを味わうこと。

夕陽があんなに鮮やかなのに、それが落ちた後の空の黒はなんとも重苦しい。日没直後の空の黒と、深夜に広がる空の黒はなんだか違うものだ。日没直後の黒は、夕焼けという祝祭が終わったあとに来る通夜の黒色だという気がする。なんとももの悲しく、そして不気味な終末の黒色だ。

その一方で深夜の黒はなんだかスッキリしていて、広々としている。朝日の到来を待望しながらも、同時に、いつまでも静かな夜が終わらないことを念じ続けるはじまりの漆黒。

玉くしげ明けまく惜しき可惜夜あたらよを衣手離れてひとりかも寝む

詠み人知らず
『新古今和歌集』巻第十五 恋歌五
2021年11月24日 / 『ブレードランナー』は年4回で十分ですよ!

そう、私は今宵、再びあの「愉悦」に手を伸ばしたのだ。『ブレードランナー』ファイナル・カット UHD BDを自宅で耽溺するという「愉悦」に……やはりあのタイレル・コーポレーションでレイチェルが、デッカードの尋問という名のセクハラに耐えながら、それでも精神を奮い立たせてキッと相手を見据え、勝ち気に見えてその実臆病かつ繊細な精神を覆い隠す心の煙幕として吐き出す煙が、人工の瞳の黄金の前で妖しくゆらめき、その二人の性的な対峙を燃え尽きる直前の太陽が静かに見守っている様子、これら全てのニュアンスを抜かりなく表現するためには、HEVCで90Mbps以上のビットレートが必要なのだ……。HDRは映像の太陽なのだ……。

サイバーパンクとは文化のコラージュなのだ!いまだにほとんど全てのSFが『ブレードランナー』のネオンの光の域内にとどまっている事実を考えるに、やはりこれは直近40年において最大のSFであると言えるだろう。そう、40年だ。1982年にリドリー・スコットが、SFの世界に巨大なディープ・インパクトをもたらしてから早40年。これを記念して、全国のIMAXシアターは再び『ブレードランナー』IMAX上映を敢行すべきだ……そう思わないか?

リドリー・スコットの作家としての卓越は、画面をディテールで覆い尽くす際のスキのなさだ。リドリー・スコットの画面は決して箱庭的にはならない。それは一個の世界なのだ。

2021年11月22日 / 人間が

どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿をみとめてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめてかかった考えです。

というのは、どんな人間でも、その真実の姿などというものは、不気味で、愛することの決してできないものだからです。これにはおそらく、ほとんど一つの例外もありません。

三島由紀夫
『不道徳教育講座』「告白するなかれ」

自分に属性が近い相手と親しい関係でいつづけるのは難しいのかもしれない。自分に近い存在は、近いがゆえに、その人のあらゆる行動に対して、行動の「手つき」が見えてしまう。行動や思考の「手つき」が可視化され、その動機があらわになっている人間ほどグロテスクな存在はない。したがって、わずかな期間だけ持っていた同族への共感は、そのまま反感へと変わってしまう。

私は、人間と人間をつなぎ続けるものは、能力でも相性でもなく、最終的には縁しかないと思う。

私は、人間が無限に深遠な存在だとは思わない。

むしろ、人間というのはどこまで行っても時代的な制約を受けている限定された存在で、その時代には、「その時代らしい人間」しか存在しない。50年後の未来には、テクノロジーが人間性をもっとラディカルに変え、現在にはいないような思考と態度を持った人がいるかもしれない。しかしそれは50年後の時代が今の我々から見て「特殊」な時代であって、その人間が特殊なのではない。

人間は限られた存在だが、奇妙なことに、人間が作り出す思考や問いかけは底が知れない。あるいは人間は、自分が解決できないような問題を生み出すことならできるのかもしれない。したがって人間は退屈を恐れる必要はない。

人間は問題解決力より問題生成(発見)能力の方が強い。問題があることは発見できるのに、解決ができない。

相手に対して高望みしたり、理想像ばかり強まるのも同様の問題で、お互いに「なんで自分の考えているような人間がいないんだろう」と考えていて、自分も相手もお互いの水準を満たすことができず、互いに軽蔑しあっている。

言葉の中にだけ無限がある。

観念……そう。ハッキリ言って、観念は人間以上に興味深いものです。何よりも興味深い。観念は生きてます。闘います。死に向かいます。人間のように。

les idée, je vous l’avoue, m’intéressent plus que les hommes; m’intéressent par-dessus tout. Elles vivent; elles combattent; elles agonisent comme les hommes.

アンドレ・ジッド『偽金つくり』

なぜ人間はかくも美しくないのでしょうか。[……] 少なくとも近代以降の自意識を抱えた人間は、まさに自意識を持つがゆえに自らを美しいとは感じられなくなったのです。[……] 鳥や獣を「壮大な無意識の世界の住人」と呼んだのは先に挙げた言葉と同じく、ロマン派の詩人たちでしたが、彼らは無意識の存在であるがゆえに意識に囚われた人間の目に美しく映り、翻って意識そのものである人間はその埒外にある――つまり人間は人間であるがゆえに人間を美しいと感じることができないのだ、ということになります。

押井守『イノセンス 創作ノート 人形・建築・身体の旅+対談』徳間書店
2021年11月21日 / 動画制作のリハビリ、テキストとリッチメディアの融合

意外とあちらこちらで「もう動画作らないんですか?」と訊かれていて、回答としては、ずっと作ろうと思っているものの、色々と考えなければならないことがあり、仕込みも必要なので作れていない。リハビリも兼ねて、Webサイトの方でラジオというかポッドキャストみたいなものを配信し始めた。これが楽でいい。何しろしゃべるだけである。

まあ実際には微妙にしゃべるだけでは済まないし、こだわりだすと編集工程は無限に増える。手間を増やさないためになるべく無加工の完パケ(撮って出し)に近い状態で収録しようと思っている。再開を予定している動画投稿も、なるべく即興収録に近い態勢を目指すつもりである。

リハビリと書いたが、恐らくこのサイト、文客堂は、今後もテキストだけではなく、動画や音声をもっと融合した形に変化していく。テキストが書かれたページに音声や動画が組み込まれていて悪いということはない。私はWebサイトの進化の先は、今よりもっとテキスト・音声・動画が融合した形になるべきだと思っている。音声には音声の、動画には動画のニュアンスがあるし、自分で全て作れるようになった今となっては、それらを特別に区別する理由がない。もちろん、テキストだけ読みたい人はテキストだけを読めばいいし、それで問題ないと思っている。Webサイトの最大の強みの一つは、あらゆるメディアを自由に取り込めることであると思う。

動画制作についての考え

この音声内での「さっき作った音声コンテンツ」とは『恋のニノウチ』のレビューのこと。

2021年11月8日 / 散歩に最適な時間帯

眠り方を間違えたのか、身体の節々が痛く、ギクシャクしたマリオネットみたいな動きで街を歩いた。

秋は夕刻がすぐ過ぎ去ってしまって残念だ。『枕草子』によると「夏は夜、秋は夕暮れ」だそうだが、私の考えだと「夏は夕暮れ、秋は夜」である。

夏は夕暮れの時間帯が長い。夕陽に照らされた街は、1日でもっとも豊かな景観を備える。太陽が放物線を描くのにしたがって街のライティングは刻一刻と変化し、座っているだけでも無段階に変化していく街の様子を愉しめる。なかんずく夕陽が埋没する一瞬は魔法のようである。

街を散策する人間にとって、夕暮れ時は散歩のゴールデンタイムである。また日中と違い、夏でも16時過ぎくらいから1時間で大体気温が1-2度下がるようになるので、日差しが欲しいが暑い中歩きたくない、という人にも最適である。

朝焼けの時間帯もかなり良い。普段とは逆方向から照らされるので、街の様子が非日常的な感じがするのだ。

2021年10月31日 / 365分の1の純粋な偶然、ハロウィン所感

私は無神論者だが、ときには運命に導かれるように奇妙な偶然を体験することがある。

今朝、ジョン・カーペンター監督の『ハロウィン』(’78)についての一考察を書いた。だが実はこれは全くの偶然である。つまり世俗との関わりを極力絶って象牙の寝床に閉じこもっている私は、今日がハロウィン当日だということを忘れていたのである。私が当該記事を書いたのは、純粋に「カーペンター監督の全作品について、とりあえず思考の跡を残しておきたい」という動機からであった。

それにしても日本流のハロウィンの風習は未だになじまない。

ここで私は、本国におけるハロウィンとの乖離など、聞き飽きた講釈を並べたいわけではない。日本のラーメンが中国のそれとは別種であるように、各国には各国の輸入と適応の歴史があるはずだ。私は原理主義者ではない。

そうではなくて、ハロウィンというイベントが、人生の途中で突然降って湧いたからなじまないのである。

つまりこういうことだ。私は風習というものは、「生まれる前からそこにある」か、あるいは「リアルタイムの出来事としてその発生を目撃した」場合でないと、どうも風習として嘘くさい、という感じがして「ノレない」のである。

たとえば喜ばしい行事ではないが、阪神や東日本大震災の追悼行事は、時代の当事者としてその発生を目撃したわけで、こういうのが毎年執り行われることになんの違和感もない。

他方で日本のハロウィンというのは、ある時期から突如、あたかもスクランブル交差点に年に一度だけ魔界の門でも開くようになったかの如く、鬼面妖魔が夜中の渋谷を闊歩し、練り歩くようになったわけで、まさに現代の百鬼夜行という趣である。このイベントがなぜ急激に根付いたのかもピンとこないし、どっかの識者がそれらしい説を唱えたところで、到底腑に落ちそうにない。

だからそういう点で、最近生まれた子供たちは幸いだと思う。彼らはなんの違和感もなく、「日本の伝統行事」としてのジャパニーズ・ハロウィンを享受できるようになる可能性が高い。どんなことでも、愉しめる者が得なのである。勝者なのである。日本には元来、クリスマス・正月と誕生日くらいしか祝祭らしい祝祭がないのだから、もう2つ3つ付け加えた方が人生の喜びが増えるに決まっている。

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今日読んだ本

  • 横尾忠則『言葉を離れる』

今日観た映画

  • 『ヴァンパイア 最期の聖戦』
  • 『ハロウィン』

(ヘッダー画像:映画『ハロウィン』(’78)より)

2021年9月4日(土) / 手塚治虫のドラマツルギー、藤本タツキと映画

古いマンガを読みたくなったので藤子不二雄Aのブラックユーモア短編(『不思議町怪奇通り』など)を読んでいたら、ふと手塚治虫も読みたくなったので、絶筆になった作品や『アドルフに告ぐ』あたりをパラパラと読む。

手塚作品は主題がデカいので、それを駆動するためのエンジンとして、古典悲劇のようなドラマツルギーをよく採用している。「運命の皮肉」というやつである。しかし主題がデカいだけに、これがよく適合している。最近のマンガは内容が良くも悪くも卑近なので、こういう大仰なエンジンはハマらない。そもそも古典劇自体が忘れられている。

また手塚作品は、手塚の、インテリ顔負けの教養の広さ深さをベースに展開されるため、簡単に底が割れないようなっている。私は、手塚最大の強味は創造性よりも教養だと思っている(突き詰めると教養こそ創造性なのだが)。

たとえばベートーヴェンの伝記漫画である『ルードウィヒ・B』を、他の作品と並行してサラッと描いたり、 『アドルフに告ぐ』でワーグナーの音楽を物語に自然に絡めて描けるのは手塚ならではと言える。手塚は短時間で並列的にプロットを練っているので、中・長編においてストーリーが迷走、あるいは伏線が忘却されることもしばしばだが、作家としての屋台骨が堅牢でハッタリも利いているためになんとなかなっている部分もある。

手塚とその直系の藤子不二雄コンビの時代までは、漫画家も教養の広さを重視していた。『まんが道』でも、手塚が事あるごとに「映画をいっぱい観なさい」と藤子不二雄に助言するシーンが出てくる。今日読んだ中だと、たとえば藤子不二雄Aの1972年の読切「内気な色事師」は、ストーカー問題をいち早く主題にした漫画だが、タイミング的にイーストウッドの『恐怖のメロディ』(’71)に触発されて描かれた可能性が高いのではないかと思う。

他方で最近の漫画は、もっぱら漫画を模倣した漫画が多い。殊に少年漫画はそうである。少年漫画で映画的教養をふんだんに利用している作家は荒木飛呂彦と藤田和日郎くらいではないか。

そんな中で最近、藤本タツキという新たな才能が登場し、タランティーノやフーパーを自在に引用して、少年漫画界で好き放題暴れまわっている。その藤本タツキが最近描いた読み切りが『ルックバック』である。単行本も出たので今日買ってきた。

この『ルックバック』も、映画の匂いがプンプンする複合的な作品である。とても良く出来ている。良く出来すぎていて、日本の漫画家志望者が自殺しないか心配である。しかし『ルックバック』を読んで筆を折るのはその芸術家の精神の問題なので、藤本タツキに罪はない。

(ヘッダー画像:手塚治虫『ネオ・ファウスト』『ルードウィヒ・B』)

2021年8月20日、予約してない本、俗悪に生きてやれ

午前4時から、なぜか、スト2のこたか商店の10先が始まっていたので観る。

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ジャンプ+で『ハイパーインフレーション』の更新日。またグレシャム裏切るのかよ。どっちがどっちだか分からなくなってきた。グレシャムの法則。

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図書館に、予約した覚えのない本が届いていて、大いに首をひねる。

中身を読んでから気がついた。これは、私が予約した本だ。

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「あなたって、近頃はなんだか意味ありげなことばかりしてるんですね。効率。コスパ。堕落です堕落。ほんと、口だけなんだから。もっと世間的に無価値なことに励みなさい。意味に対して無意味で抵抗し、通説に対して逆説を弄し、合理の上で大の字になって非合理に昼寝を始めるのが、道化の本懐ではないのですか?それなのに、あなたは世間と俗悪な契約を結んで、まさに、正道に堕落せんとしている。逆立ちをした道化の世界では、転落こそが昇天であるという、さかしまの道理を忘れてはなりません」

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俗悪に生きてやろうと思った。大いに俗悪に生きてやろうと思った。

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観た映画

  • 『ゲームの規則』

読んだ本

  • 『坂口安吾全集15』筑摩書房