2021年9月4日(土) / 手塚治虫のドラマツルギー、藤本タツキと映画

古いマンガを読みたくなったので藤子不二雄Aのブラックユーモア短編(『不思議町怪奇通り』など)を読んでいたら、ふと手塚治虫も読みたくなったので、絶筆になった作品や『アドルフに告ぐ』あたりをパラパラと読む。

手塚作品は主題がデカいので、それを駆動するためのエンジンとして、古典悲劇のようなドラマツルギーをよく採用している。「運命の皮肉」というやつである。しかし主題がデカいだけに、これがよく適合している。最近のマンガは内容が良くも悪くも卑近なので、こういう大仰なエンジンはハマらない。そもそも古典劇自体が忘れられている。

また手塚作品は、手塚の、インテリ顔負けの教養の広さ深さをベースに展開されるため、簡単に底が割れないようなっている。私は、手塚最大の強味は創造性よりも教養だと思っている(突き詰めると教養こそ創造性なのだが)。

たとえばベートーヴェンの伝記漫画である『ルードウィヒ・B』を、他の作品と並行してサラッと描いたり、 『アドルフに告ぐ』でワーグナーの音楽を物語に自然に絡めて描けるのは手塚ならではと言える。手塚は短時間で並列的にプロットを練っているので、中・長編においてストーリーが迷走、あるいは伏線が忘却されることもしばしばだが、作家としての屋台骨が堅牢でハッタリも利いているためになんとなかなっている部分もある。

手塚とその直系の藤子不二雄コンビの時代までは、漫画家も教養の広さを重視していた。『まんが道』でも、手塚が事あるごとに「映画をいっぱい観なさい」と藤子不二雄に助言するシーンが出てくる。今日読んだ中だと、たとえば藤子不二雄Aの1972年の読切「内気な色事師」は、ストーカー問題をいち早く主題にした漫画だが、タイミング的にイーストウッドの『恐怖のメロディ』(’71)に触発されて描かれた可能性が高いのではないかと思う。

他方で最近の漫画は、もっぱら漫画を模倣した漫画が多い。殊に少年漫画はそうである。少年漫画で映画的教養をふんだんに利用している作家は荒木飛呂彦と藤田和日郎くらいではないか。

そんな中で最近、藤本タツキという新たな才能が登場し、タランティーノやフーパーを自在に引用して、少年漫画界で好き放題暴れまわっている。その藤本タツキが最近描いた読み切りが『ルックバック』である。単行本も出たので今日買ってきた。

この『ルックバック』も、映画の匂いがプンプンする複合的な作品である。とても良く出来ている。良く出来すぎていて、日本の漫画家志望者が自殺しないか心配である。しかし『ルックバック』を読んで筆を折るのはその芸術家の精神の問題なので、藤本タツキに罪はない。

(ヘッダー画像:手塚治虫『ネオ・ファウスト』『ルードウィヒ・B』)

2021年8月20日、予約してない本、俗悪に生きてやれ

午前4時から、なぜか、スト2のこたか商店の10先が始まっていたので観る。

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ジャンプ+で『ハイパーインフレーション』の更新日。またグレシャム裏切るのかよ。どっちがどっちだか分からなくなってきた。グレシャムの法則。

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図書館に、予約した覚えのない本が届いていて、大いに首をひねる。

中身を読んでから気がついた。これは、私が予約した本だ。

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「あなたって、近頃はなんだか意味ありげなことばかりしてるんですね。効率。コスパ。堕落です堕落。ほんと、口だけなんだから。もっと世間的に無価値なことに励みなさい。意味に対して無意味で抵抗し、通説に対して逆説を弄し、合理の上で大の字になって非合理に昼寝を始めるのが、道化の本懐ではないのですか?それなのに、あなたは世間と俗悪な契約を結んで、まさに、正道に堕落せんとしている。逆立ちをした道化の世界では、転落こそが昇天であるという、さかしまの道理を忘れてはなりません」

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俗悪に生きてやろうと思った。大いに俗悪に生きてやろうと思った。

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観た映画

  • 『ゲームの規則』

読んだ本

  • 『坂口安吾全集15』筑摩書房
2021年8月19日 / 雨振る8月……

雨振る8月という、喜ぶべきか悲しむべきか知らない、1つの特殊な季節が過ぎ去って、日本は今年2度目の夏に突入している。今日の東京の最高気温は31度。

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もう少しで先に行けそうな気がする。もう少しで違った景色を見られそうな気がする。そういう予感が長く続いている。

そこでこの予感は、いよいよ蜃気楼で、先に行けないのは、ただ単にそれが幻だからじゃないかという疑惑も湧いてくる。ところがこれ自体が「偽物の問題」というやつで、自分は、ここから先に進めない未来なんてものには微塵も興味ないことが分かりきっているのだから、そんな危機感には気づかないフリをして、ずんずん先に進むのが正解なのだ。

(ヘッダー画像は、ずっと接続せず放置しているスピーカーユニット)

2021年8月9日 / 緑のたぬき

「緑のたぬき」を食す。

あれは確か「どん兵衛」だったと思うが、子供の頃、インスタント蕎麦をはじめて食べたとき、うかつにも、カリカリのかき揚げを麺と一緒にお湯にひたしてしまった。そうして、とっておきのかき揚げをフニャフニャにしてしまい、無惨にスープの中に散乱させるという通過儀礼を経験し、私も大人になったものだ。それ以来、かき揚げは必ず後入れにしている。

ところで、世の中には「赤いきつね vs. 緑のたぬき」という党派争いが存在するそうだ。私はそのどちらにも与しない。いかにも私は併呑する。どちらも好きだから、どちらも食う。当たり前の話だ。だから私の中に「赤 vs. 緑」という対立は存在しない。そのような二元論的な応酬は、自分の中ではポケモンで終わり、20世紀最後の太陽と共に海に沈んでいった。私はどちらにも投票しない。投票しないということは、そのどちらにも一票投じることと同質である。私は争いを好まない。

また世の中には、「きのこの山 vs. たけのこの里」という終わりなき闘争もあるようだが、この争いもやはり自分の中には存在しない。どちらも食べないからだ。

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何年も前に模試を受けただけの東進ハイスクールから相変わらずハガキが届く。「高2生」向けで、宛先は「秋山俊」と「保護者様」だ。残念ながら私はもう大学すら卒業して、模試を受けたときでさえ、とっくに成人男性だったのだ。なぜ東進は私が大人であることを認めないのだろう?

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読んだ本

『散歩の収獲』赤瀬川原平

2021年8月7日 / ルビが面白い

最近さいきん記事きじで、たまにルビがられていることにおづきだろうか。

HTML5で正式採用されたタグ、<ruby>によるものなのだが、私はこれまで互換性の面から、HTMLによるルビの表示を信用していなかった。しかし使ってみると、これが結構使いやすい。表示もそんなに乱れないし、最近当サイトで採用した「しっぽり明朝」フォントと合わせると、まるで活字を読んでいるような感覚がある。

これを使えば「もう秋かロトン・デジャ……」とか「神の不在証明パーフェクトプラン」とか、「暁がきたら俺たちは、燃え上がる忍辱にんにくの鎧を着て、光り輝く街々に入ろう」とかも、問題なく表示できるのだ。「漱石は総ルビでないと読む気が起きない」というあなたも安心である。ルビによる言葉遊びというのも、YouTubeでやって以来興味があるのだが、それも追求できるかもしれない。

しかしHTML側のサポート体制はテキトー、というか、機能的には随分貧弱である。まあルビを必要とする文化も限られるから仕方ない。たとえば同じ漢字文化圏でも、中国語なんかは、基本的に、漢字1つにつき読みは1つしかない合理的な設計である。そのため、学習者向けに読みと声調を振る(你好Nǐ hǎoみたいなやつ)のでない限り、ルビは必要ない。

2021年8月6日 / サイト更新中、私の自作癖

あなたもお気づきの通り、現在、このサイトは絶賛更新作業中であり、絶賛不具合連発中である。

サイトを更新するたびに書いている気がするが、Web屋でない人間がたまに本腰を入れて作業しようと思うと面倒だ。過去の自分が書いたコードを思い出しながら格闘しなければならない。もう本当に、記事を書くだけだったら既存のテーマを利用した方が遥かに楽で完成度が高いと思う。それでもなぜテーマを自作するのか?っと問われれば、やはり自分が使っているものというのは、できる限り自分でこしらえないと気分がスッキリしないからだ。

昔から何でもそうで、はじまりは中学生のときに、親に与えられたDELLのPCを拡張してHDDやビデオカードを付け足したことだったと思う。そのときに味わった不自由さから、「PCは自作してなんぼ」と考えるようになった。

また高校生のとき、家でゲーセンのゲームをアホみたいにプレイしていたら、アーケードスティックがすぐ壊れて、取り替えてもすぐボタンがいかれて、どうも業務用でないと耐久力が鬼低い、ということに気がついた。それから秋葉原の千石電商という店でパーツを調達して「ホンモノ」を作るようになった(当時は今と違い、業務用と同仕様のアケコンは滅多に売ってなかった)。現在ではホームセンターへ出向き、木製のガワから自作し、塗装も自分でしている。板厚13mmの木製アケコンが奏でるセイミツ LS-32-01レバーの響きは至高である。

DIYしたモノを使っていると、やはり自作はイイ、と感じる。それと同時に、やっぱこんな苦労する必要ないだろ、とも思う。最終的には「自分のモノを自分で弄れる人間になりたい」という願望で動いているだけなのかもしれない。

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読んだ本

  • 『織田作之助全集 8』 織田作之助
  • 『橋本治が大辞林を使う』橋本治
2021年8月4日 / 私にとっての三島由紀夫

去年の三島由紀夫 死後50年を機に、また自分の中での三島熱みたいなものが再燃して、色々読み直している。私は小説より評論が好きなので、特に評論を読んでいる。『女ぎらひの弁』など、ポリコレ的に完全にアウトだが、毒舌が酷すぎて面白く、二度読み返す。自分の読者の半数くらいが女性にも関わらずこれを発表するクソ度胸というか、自信過剰というか、やけっぱちというか。

大体私は女ぎらいというよりも、古い頭で、「女子供はとるに足らぬ」と思っているにすぎない。女性は劣等であり、私は馬鹿でない女(もちろん利口馬鹿を含む)にはめったに会ったことがない。事実また私は女性を怖れているが、男でも私がもっとも怖れるのは馬鹿な男である。まことに馬鹿ほど怖いものはない。

三島由紀夫『女ぎらひの弁』

この人の性格は元来生真面目なのだが、毒舌やブラックジョークを飛ばしているときの方が筆が乗っており、だからこそ『不道徳教育講座』が現代でも売れ続けているのだと思う。私は未だにこの人が純文学作家なのか大衆作家なのか知らない。

現在日本では「東京オリンピック2020」が開かれているが、三島は1964年の東京オリンピックについても複数の記事を残している。

(…) 今日の快晴の開会式を見て、私の感じた率直なところは
「やっぱりこれをやってよかった。これをやらなかったら日本人は病気になる」
ということだった。思いつめ、はりつめて、長年これを一つのシコリにして心に抱え、ついに赤心は天をも動かし、昨日までの雨天にかわる絶好の秋日和に開会式がひらかれる。これでようやく日本人の胸のうちから、オリンピックという長年鬱積していた観念が、見事に解放された。

三島由紀夫『東洋と西洋を結ぶ火――開会式』

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自分の中で三島は特別なポジションを占める作家で、私という人間を形成する上でも少なからぬ影響を受けている。

三島由紀夫(1925-1970)

日本の国土が生み出した近代最高の知性であり、近代の総決算的人物であり、近代日本そのものを象徴する存在と言っていい。二元論的な思考様式など、その限界もまた近代に由来するが、総合力において三島を超越した日本人は、とんと見当たらない。

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全集は、本当は新版を揃えたいのだが、アホみたいに高いので旧版で我慢している。どうせ旧仮名なので、未収録分は図書館で読めばいいと思っている。

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『三島由紀夫 vs 東大全共闘』

去年公開された映画『三島由紀夫 vs 東大全共闘』が、配信から2ヶ月くらいでプライム会員の無料特典に来ていてずっこける。そもそもの背景や議論の内容が説明されないので、三島を知らない人には観ても面白くないかもしれない映画。ドキュメンタリーとしては貴重なので、そのうち記事を書きたい。

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『新版・三島由紀夫 ある評伝』(ジョン・ネイスン著、野口武彦訳)を読んだ。かなり優れていると思う。三島の人生に沿う形でその著作の位置付けをしていく内容はもちろん、文章が良い。原文もいいのだと思うが、翻訳の文章レベルが恐ろしく高くて、名前を隠せば日本人が書いた本だと思うだろう。内容や形式では、奥野健男の『三島由紀夫伝説』とややかぶる。他の伝記としては、『直面(ヒタメン) 三島由紀夫若き日の恋』がおすすめで、彼の人となりがかなり見えてくる。

2021年8月3日 / セミの自由

ヒトが、薄命の象徴であるセミを見るたびに、人生の空虚さや、「自由」の意味について考えずにはいられないのはなぜだろうか。実際には、セミより短命な生命など、その辺にいくらでもいるだろう。だが、ほとんど目に入らない。したがって意識にも上らない。

他方でセミは違う。奴らほど激しく熱唱する生物は日本にいないから、嫌でも存在が目に入る。まるで「なぜオレだけが死ぬのだ?人類どもを道連れにせねば気が済まん」という意思でもあるかのように、ただでさえ地獄の酷暑なのに、マグマみたいな環境音を添えてくる。死んだら死んだで、日本中の路に地雷として散乱して、「おまえもいつかこうなるぞ」っと、人類を呪ってくる。

あれだけ存在を主張していたセミが、あっさりとくたばって、白い腹をそこら中で見せつけてくるから、人生で起こる全てのことをひと夏で実演して見せるから、忘れようとしていた運命を思い出してしまうのだろう。

最大限悪いように書いたが、私はセミが嫌いではない。むしろ、好きな方である。セミがいない夏の散歩は、暑いばかりでさぞ物足りないに違いない。ある夏、もし、突然セミたちが疫病で大量死してしまったら、彼らの鳴き声をイヤホンで聴きつつ散歩するくらいには必要としている。

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セミは、肉体そのものが知性であり精神であり、運命に抗うという発想を持たない。彼らはただ肉体として生き、本能を宝物のように見せびらかし、宿命を抱きかかえて死んでいく。肉体は彼らを閉じ込める牢獄とも言えるのだが、その牢獄こそがセミそのものでもあるので、ここで運命と意思は完全に同期していて、見方によっては全く「自由」な存在である。つまり、彼らは完全に思うがままに生きているからである。

弱くとも不自由なわけではない。薄命でも不幸なわけではない。片道切符で飛ぶ先が。

人も片道切符なのだ。

動画を直アップしてみる

夜、図書館の本を返した帰りにセミの幼虫を発見したので、撮影テスト。

19時58分撮影
巨人どもの静まりし夜そろそろと盗人のごときセミ忍び足

だいぶ前から、Webサイトやブログは、リッチメディアとテキストを、より積極的に融合する時代に入っている。その可能性を探りたい。YouTubeやPodcastとは違う、それ単体では成立しない「ショート動画/音声」の活用である。特に音声の方に可能性を感じる。

そもそも私は、勝手に消されたり評価をつけられたりするのが不自由で気に入らないので、可能であれば外部メディアは使いたくない。自分のコンテンツは全て自分で管理したいというのは、多くの管理者の望みだろう。

かつて、動画というのは自分でホストするには重すぎた。しかし現代のインフラは、以前には考えられなかったほど太くなっている。今や動画ファイルだけを、わざわざ他所に移す必要がない。今年に入ってから、大手レンタルサーバーはこぞって月あたりの転送量を倍増している。問題となるのはむしろWordPressなどのCMSを動かすためのリソースであり、転送量自体は、適切に節約すれば、おそらくほとんど問題にならない。

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読んだ本

2021年8月2日 / ランボーの翻訳

読んだ本
Une saison en enfer (『地獄での一季節』)アルチュール・ランボー
『地獄の季節』小林秀雄訳
『地獄の季節』粟津則雄訳

久々にランボーを読んでいたが、その卓越した詩情に感嘆しつつ、あらためて翻訳問題の複雑さ、もしくは「小林秀雄という最高にややこしい存在」へのアンビバレンスな気持ちを確認せずにはいられない。

翻訳ということを忘れて、単なる一つの日本語の文章としてだけ読むと、小林秀雄の文章は圧倒的に優れている。読むと、もう、これしかないのでは、と思えるほどだ。ただし翻訳としては「怪訳」に近い。他方、その30年後に出た粟津則雄訳は、翻訳と解釈の正確性という点で高い評価を受けてはいるものの、残念ながら日本語としては平凡で、詩になっていない。

小林秀雄訳の最大の美点は、なにより、文字に「音感」が完全に備わっている、という、リズムの卓越にある。リズムをつけるために大胆にランボーを脚色し、部分的にオリジナルを超えている――というか、超えてしまっている――とすら思える箇所もある。仏文の人間にとって、小林訳は、「軽々しく認めるわけにはいかないが、でも引き出しに隠しておいてこっそり読んでしまう」という、春本のような存在である。

これについて書くと少々長くなるので、記事をあらためて書こう。(→小林秀雄訳『地獄の季節』、あるいはランボー怒りの超訳

ところで1年ほど前に、中地義和『対訳 ランボー詩集――フランス詩人選1』という、かなり気合の入った、ランボー翻訳と注釈の集大成的な本が出たらしく、これから読むつもりである。

2021年7月30日 / 悪友、東京散策:明治神宮~恵比寿

3ヶ月くらい前から、月に一度程度、「悪友」と街を当てどなく6時間くらい歩き続ける、という「定期散歩」が起きている。今回は渋谷区付近を歩いた。

この「悪友」、8歳くらいからの付き合いなのだが、現在、プライベートでも私とまともにコンタクトを取っている地球上で唯一の男である。何度も私の方から音信不通になっておいて、2年前に再会したときにも、その後の連絡を無視し続けたのだが、しつこいもので、ずっと連絡してくるので、私もなんだか根負けして付き合いが続いている。

なぜ無視してたかというと、読みたい本や映画が山程あったためである。別に彼を嫌ってるというほどではない。普通ならこんな私には愛想を尽かすと思うのだが、それでも連絡してくるのは何故なのか。理解できないが、今では少しだけ感謝もしている。

独言録:夏の音楽性

12時24分に記録

東京散策:明治神宮~恵比寿

明治神宮は原宿に在る、かなり巨大な神社である。ほとんど森の中にあるようなものだが、経路が妙に直角的に、人工的に作られているため、どことなく、迷宮めいた雰囲気をかもしている。もっとも、道がほとんど一本しかないのだが……。悪友が賽銭を投げてお参りしている間、私にはそのような宗教的習慣がないので、近くでボケッとしていた。

そのまま国立代々木競技場付近を通り、代々木公園をも通り抜ける。代々木競技場は64年東京オリンピックの際に建設されたそうである。現在、オリンピックの最中なので、さすがに警官の数が多い。普段の私なら、これほどの数の警官の前を職質なしで切り抜けるのは至難の業なのだが、隣にいた悪友が悪人顔であったため、私の善良さが自ずと際立ち、人徳あらたかで、職質を余裕で免れる。

渋谷駅付近まで来たところで、豪雨の兆しがあり、仕方なくスタバへと退避。スタバは高いクセにコーヒーがまずいので気が進まなかったが、それでも背に腹は代えられないと思ったのだが、コールドブリュー(水出し)・コーヒーは意外にうまく、悪くない。

雨が止んでから「麺屋武蔵」で早めの夕食をとる。ここの冷やし胡麻担々麺が美味いとのことである。麺3倍まで無料で盛ってくれるので、普段なら迷わず3倍で、それ以外は「逃げ」と断じるところだ。ところが5時間前に昼食を済ませたばかりだし、口に合わなかったら具合が悪いと思ったので、ヒヨって2倍盛りで妥協してしまう。ところが一口目からべらぼうに美味く、思わず「麺の量を間違えた。これは4倍まであった」と漏らすが、後悔先に立たず。

この日の気温は28度程度と、7月末にしては穏やかだったが、降雨のせいで湿気が半端なく、歩を進めるほどにじわじわと汗ばんでいく。わざと渋谷でアップダウンの激しい坂道を歩き、「あぁ、ここはやっぱ谷なんだね」と思いながら、恵比寿までのらりくらりと歩いていくが、ここで「ASO:VIBA!」というゲームセンターを発見。ビルの2/3Fに「ゲーム」というシンプルな看板だけがある、昔ながらの隠れゲーセンなので、思わずスルーしてしまいそうな立地である。

ビルの2/3Fに「ゲーム」というシンプルな看板だけがある……(写真はGoogleマップより)

意外にも気骨があるゲーセンで「ストIII 3rd」「D&D SoM」など、狭い店内に最大限の“わかってる”ラインナップを揃えている。記念に「D&D SoM」を遊ぶが、即行で終わる。

ゲームオーバー画面の気だるい縦スクロールを眺めながら、「オレが得意なのはD&D ToDの方で、全盛期ならブラックドラゴンですら赤子同然。速く撃破し過ぎてよく進行バグを引き起こし、そのたびに電源リセットを頼んで店員を困らせたものだ」と負け惜しみを残して、懐かしい昭和のビルを後にした。

(日記を書く習慣がなく、写真の1枚も撮らなかったのは何とも味気なかったと、書いてから気づいた)