宇宙に美はない、ただ人間がそれを発見する / 赤瀬川原平『正体不明』

2021/08/19 ・ 書籍 ・ By 秋山俊

何もない場所を散策するのが好きである。何もない場所をうろつき、そこに、ただ通り掛かるだけでは気づかないような風景の面白味や、生活の痕跡を発見することが、私の散策の20年来のテーマなのだ。

あまりにも地味な趣味なので、この愉しみを共有できる人間など、いないとすら思っていた。そう、赤瀬川原平の名前を知るまでは。

『正体不明』シリーズとは

芥川賞作家にして千円札裁判を引き起こした前衛芸術家、赤瀬川原平の『正体不明』シリーズは、写真集なのだが、彼らしく一風変わっている。「一見何もない風景」の写真集なのだ。

彼が撮っている写真は、特に変哲のない街角の風景である。だがそこに赤瀬川の一言で「意味」を加えることによって、一つの味わい深い風景が浮かび上がる、という写真集になっている。

たとえば下の写真。

『正体不明』より

雨で濡れた塀のシミを写しているに過ぎない。ところがそこに赤瀬川の一言「雨の日のK・K・K」が加わることで、ただのシミが「 K・K・K (クー・クラックス・クラン)」の模様に見えてくる。

かつてアメリカで白人主義を掲げたK・K・K

『正体不明』シリーズは、「切り口や視点を変えれば、世界がどんなに愉しく見えるか」を伝える写真集である。この写真集では、1ページに1枚、こういう少し違った視点から世界を眺めるための散歩写真が掲載されている。

『正体不明』より「富士山」
バリアフリーの道路工事に挟み撃ちされた結果出現したオブジェを「富士山」と呼ぶ赤瀬川。無用の長物を純粋芸術と見る精神は、赤瀬川の代名詞と言える『超芸術トマソン』にも通じる。町中に様々な理由から出現した「富士山」的なオブジェの写真が何枚か続く。

他にも私のお気に入りは下の写真。どこかの車の上に、なぜか置いてあったスニーカーに面白味を見出した街角写真である。

『正体不明』

説明は「ライカM3に緊張するスニーカー」。ライカM3というのは有名ブランドのカメラ。「緊張する」という修飾がいい。車の上にあるスニーカーが、高級カメラに、本当に緊張しているように見える。

写真に説明をつけるスタイルについては、次のように語られている。

写真作品というものを見るとき、何の説明もないと、その写真の見ようがなくて困ることがよくある。無口な人と対席したみたいで、だんだん深刻になって、そこを離れたくなる。せめて日付か場所でも書いてあればと思う。だからこの本では何らかの言葉を添えるわけだが、それがただの説明になったら、ああそうですかで写真は終わりだ。

写真というのは見るものだから、言葉は見ることへのちょっとした糸口としてあればいいのである。

赤瀬川原平『新 正体不明』東京書籍

フルカラーで120Pくらいしかない。定価は2,000円。少し高い。しかし人気が出たため、『新 正体不明』『ベルリン 正体不明』とシリーズ化した。晩年の『散歩の収獲』を最後に、赤瀬川が逝ってしまった。写真と言葉のセンスは、その『散歩の収獲』が最も良いと感じる。最高傑作。続いて『正体不明』『新 正体不明』が良い。

視点が世界を変える

これらの本を、「一発芸」「出オチ写真集」であると見なす人もいるだろう。しかし真実は逆である。むしろ、「何もないところに、解釈を加えて面白さを見出す」ことこそが、人が何かを面白がるときの、基本的な態度だと言っていい。赤瀬川の『正体不明』シリーズは、ユーモアの王道を志向しており、読後の充実感は、読者の「世界への視点」それ自体が改革される快感である。

この世には「最初からそれ単体で成立している面白いこと」というのは、それほど存在しない。ただそこに誰かが、「これは、こういうところが素晴らしいんだ。ここを面白がるんだ」という「説明・視点」を加えて、それを大勢が共有するから「面白いこと」に変わる。そうした、世界に対する多様な視点・価値観を教養と呼ぶ。

たとえば絵画の教養がない人に印象派の絵を見せても、多くの人が「輪郭がボヤケた下手くそな絵」だと考えるだろう。実際、印象派が登場したばかりの頃は、後の巨匠たちの作も「未完成のスケッチ」などと酷評を受けていた。「印象」という言葉は批判者による揶揄であった。しかしそこに誰かが「光を捉えている絵だ」とか「細部ではなく全体を見ると良さが分かる」とか、「そもそも外に出て風景や農民を描くこと自体が画期的だったのだ」という「説明・視点」を加えたことで、その面白さが共有され、広く評価されるようになった。

他にもたとえば、今でこそアルプスの山々は、雄大な自然美の代表格として讃えられる。ところがルソーが『告白』や『新エロイーズ』でその美しさを讃えるまでは、単に「移動するのがとてつもなく面倒な場所」と見なされ、障害物としか認識されていなかったという。

Rousseau Les Confessions
ルソー『告白』
美の発見とはイマジネーションである。芸術家はあらゆる「平凡な風景」の中に美を見いだせるので、退屈という概念を知らない。ルソーは語る。「どんな境遇をも自分の空想で飾るほど豊かな想像力、いわば思いのままに、この境遇からあの境遇へと移れるほど強い想像力をもっていたので、私はどんな境遇にいても、ほとんど問題はなかった」……この彼の考えは、晩年の『孤独な散歩者の夢想』にも強く現れている。優れた芸術家は、言わば生身でAR(拡張現実)を生きることができるのである。

この世に沢山の「面白いこと、美しいもの」が溢れているように見えるのは、我々が先天的に感受性豊かだからではない。先人たちがそれらの愉しみ方、鑑賞方法をあらかじめ確立して言語化し、それを伝えているからであり、自然美は人工的遺産なのだ。だから、単に水が激しく落ちて通れないだけの場所を「世界三大瀑布」と呼んだり、大地が割れている危険な峡谷を「グランド・キャニオン」と呼んで、そこに雄大な美を発見できる。そもそも「美しい」という概念自体が一つの言語化、発明だったのだ。美の発見は、感覚よりも言語的なものである。

赤瀬川の『正体不明』は、様々な「街角の面白さ」を紹介することで、読者の眼に覚醒を促す。だからこの本はわずかなページ数にも関わらず、豊かなのである。

モノは価値(美)を認められて存在を始める

そして印象派の画家たちやルソーが、世界に新たな美を見出したように、誰も気が付かない「平凡」の中に美を、意匠を発見することこそが、芸術家の本分と言えるだろう。オスカー・ワイルドは言う。「どんなものでも、その美しさを認めるまでは本当に見たことにはならない。そのものの美しさを認めたとき、初めてものは実在し始める。」

オスカー・ワイルド

ワイルドのこの言葉もまた、奇をてらった逆説などではない。むしろ彼の言葉は、ソシュールの言語学を先取りしている。よく引き合いに出されるように、フランス人は「蛾」と「蝶」を区別せず、どちらも「パピヨン」と呼ぶ。だから彼らの中に「蝶」は実在しない。しかし日本人はパピヨンの中に、特別な美しさを持った存在を「発見」し、「蝶」と呼び愛でた。だから日本人の中では「蝶」が実在する。

「蝶」の「発見」は、赤瀬川原平が、雨で濡れた壁の中にKKKのイラストを「発見」したことと、原理的には全く同じことなのだ。そしてワイルドが言うように、平坦な世界から美を選り抜くのが芸術の本分である。つまり『正体不明』という本の中で赤瀬川は、散歩という日常それ自体を芸術と化している。話が日本の街角からアルプスまで飛んだが、この論理は飛躍していない。

本についての記事一覧

初版:2021/08/19 ―― 改訂: 2021/08/24

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