とみさわ昭仁『無限の本棚』 / コレクションとは“切り口”である

2021/08/10 ・ 書籍 ・ By 秋山俊
とみさわ昭仁『無限の本棚』筑摩書房

すごい本を読んでしまった。人間が生きる上で重要なヒントが隠されている。『無限の本棚』は、様々なモノのコレクターである著者が、自身のコレクション遍歴を語りながら「コレクションとは何か?」という、収集の本質に迫る本である。

さて、私が思うに、この本で最も重要な箇所は以下だ。

ぼくは何かのコレクションをはじめるときに、そのものを好きかどうかよりも(もちろん好きであるに越したことはないが)、それを集めている人が他にいないことを重視する。誰かがすでに集めているものなど集めたくはない。

まだ、誰も集めたことがないものや、誰も気がついていない蒐集テーマを自分が第一発見者となり、それを集める。そこにコレクションの醍醐味がある。

とみさわ昭仁『無限の本棚』筑摩書房

この言葉は、おそらく、コレクションという範囲を超えて、「人間にとって愉しさとは何か?」という、根源的な問いについての、重大なヒントになっている。

自分だけの世界でないとつまらない

とりわけ重要なのは、著者が「収集対象が好きかより、収集が他人とかぶっていないことの方が重要」と断言していることである。この言葉は、集めることの愉しさにとことん頭を絞った人間でないと、おいそれと出てこない言葉であると思われる。

自分がこれから成そうとする行為が、そばにいる他人とかぶっていること、そして、相手に先行されていることほど、興ざめなことはないのだ。

『無限の本棚』

私も子供の頃から無意味に収集していたものがいくつかあるが、考えてみると、収集とは「何種類か集まったから、なんか捨てるのがもったいなくて、沢山集めたくなる」というパターンが圧倒的に多い。酒瓶の蓋とか、ギザ十とか集めてたが、はっきり言って、自分の人生にとってそれ(収集対象)自体は、死ぬほどどうでもいい。

収集は、あくまで収集自体が目的なのだ。ポテトチップスについてるカードとかも、何となく集めるのであって、別にそのカードが非常に良くできていて美術的価値があり、眺めているとうっとりする、というわけでもないだろう。

そしてそういう、実益のない完全な趣味の場合、重要なのは「自分が何者にも束縛されずに、意味もないことを好き勝手にやってる」という感覚である。つまり「開放感」である。たとえば酒蓋の収集にしたって、重要なものではないから集めるのを誰にも邪魔されないし、他人に見せるわけでもないから、体面を気にする必要もない。そういう風に一切束縛を受けずに「こんなバカなことをやってる自分」という密かな楽しみにほくそ笑むのだ。

ところが自分と同じものを収集している人がいると、人間はどうしても比較して考えてしまう。自分一人で伸び伸びとやっていたはずの行為に、ある種の社会性が生まれてしまう。ここからコレクションの不毛が始まる。実際、他人のそれとの心理的な「競争」が発生すると、宝物であったはずの自分のコレクションがみすぼらしく見えてしまうし、追いつくために消耗してしまうこともある。

ホイジンガ(著) 高橋英夫(訳)『ホモ・ルーデンス』中央公論社
この考えは、人間の「あそび」という概念について深く考察したホイジンガの『ホモ・ルーデンス』という名著を思い起こさせる。その本にはこう書いてあった。「すべての遊びは、まず第一に、何にもまして一つの自由な行動である。」「命令されてする遊び、そんなものはもう遊びではない。」……人間が何かを「あそぶ」ためには、「自由」「強制力を感じない」ということが、何よりも重要なのだ。

自分だけの収集の切り口を探す

そこで、収集自体が趣味となっている著者のとみさわが説くのは、「独創的な切り口で自分だけのコレクションを集めること」である。コレクションは、自分の中で収集の切り口、つまり収集対象の共通性さえ見いだせれば成立するので、既存のコレクション用アイテムにこだわるのではなく、勝手に自分で収集テーマを設定して独自路線を走った方が面白いというのだ。

たとえば文庫版には、巻末に伊集院光との対談が載せられているのだが、そこで伊集院が集めていると語っているのが、「道端に落ちている軍手」である。こういう独創的な切り口であれば、同好の士を発見すること自体が困難で、常に自分だけがそのコレクションの王様でいられるのだ。このように、発想だけで自分だけの価値をいつでも創造するのが収集の醍醐味だという。

そこで、様々なモノを集めて収集の究極の域に達した著者は、「エアコレクション」という新たな手法を提唱する。これは、「収集は情報だけがあればよく、実際にモノを所有する必要はない」という考えに基づく「持たざる」収集方法である。たとえばトレカを集めていたとしても、実際に自分で店に行き、実物を見て、その写真を撮れば「集めた」ということにしていい。収集自体が面白いから、それで写真をズラッと並べれば問題ない。カネもかからない。

コレクション趣味を突き詰めた結果、収集は物質の所有に依存しない純粋概念と化し、あたかも武を極めた人間に武器が不要になったかのごとく、モノを捨てるに至ったのである。

とみさわ 似たようなもので、ぼくは道に落ちてる靴底の写真を撮ってます。手袋系は自分ではやってないんですけど、道に落ちてる片手袋はトム・ハンクスもやってますね。

伊集院 ぼくはいま、それがうまくウォーキングの趣味と重なって、同時にいくつか走らせてるんですよ。手袋でしょ、歯医者のマークでしょ、あと公園の遊具のひどいことになってるやつ。

とみさわ ああ、ペンキが剥がれたり……。

『無限の本棚』

エアコレクションの例としては、他にもネットで「札束を積んだjpg画像をひたすら集める」なども紹介されている。

重要なのは“独創”と“独走”

そしてこの「独走状態でないと面白さが減る」というのは、あらゆる領域に当てはまるだろう。

たとえばビデオゲームのRPGなんかでも、発売直後に真っ先に入手し、我先にと進めていくときの、あの「先頭を進んでいる」という感覚は特別である。

ところがインターネットが普及してからというもの、世界は急速に狭くなり、人は、自分があらゆることに関して先頭に立っていないこと、先行者がいることを知らされるようになってしまった。

文明が発達する前の時代では、多くの人が、なにかの領域で、比較的簡単に「世界一」になれただろう。なぜなら他所の情報が入ってこなかったからである。「世界一足が速いヤツ」が街ごとにいて、世界中に大勢の「世界最速の男」がいて、己の独走を誇っていただろう。

私自身は「コトバ」を収集するのが好きだ。本を読んでいて、サッと読んでいてもわからないけど、すごく渋みがあったり、ユーモアが利いているコトバは、思わずコレクションしてしまう。自分にとって読書は宝探しだ。収集するコトバの基準は自分の中にあり、本の数は膨大だから、他人と「競争」に陥る心配もない。これが私の一番好きなコレクションである。

人は、自分が世界一になれる固有の世界観を持つべきだ。その扉がコレクションなのである。

(なおこのような収集論は本書の一部である。全体構成としては、神保町で特殊古書店を開業するまでの話や、子供の頃のコレクション遍歴や、ブックオフ活用法、という順に語られていく。)

本についての記事一覧

初版:2021/08/10 ―― 改訂: 2021/08/20

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