高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』 / 「未だ到来しない傑作」の予言

2021/08/05 ・ 書籍 ・ By 秋山俊
高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』岩波書店

著者の高橋源一郎ほど、「文」そのものに寄り添いながら、「文学史」を語れる人は、めったにないだろう。文学の歴史に最も知悉しているのは「批評家的な作家」だからである。それについて先に、少し説明したい。

高橋は作家で、80年代に『ジョン・レノン対火星人』『優雅で感傷的な日本野球』などを発表し、一世を風靡した作家だ。といっても、最近はもっぱらエッセイとTV出演が多く、むしろそちらの方で、作家としてより、ずっと多くの支持を集めている。だがこれは、ある意味で当然の結果だと私は思っている。彼はずっと、小説を書くと同時に、ひょっとしたらそれ以上の情熱で、小説とは何かを語っていたからである。

高橋は、多分に批評家的な作家である。彼は小説を書くことで、その文体と意図的な模倣で、過去の小説(あるいは小説という枠組みそのもの)を批評していた。それが彼のスタイルだった。彼の小説に人々が戸惑うのは、それがあまりに批評的過ぎ、ハイコンテクストで、読者に高いリテラシーを求めるからである。彼の文章を前にして、読者は深くうなづくか、爆笑するか、ボーゼンとするかの三択しかなかった。彼は「フツーの小説」、あるいは「大学入試で採用されてもいい小説」など、全然書かなかった。

高橋源一郎『優雅で感傷的な日本野球』
あらゆる行為や考えを「野球用語」で説明しようとする世界を描き、「文学の自閉的な言葉遣い」を批判した小説

その点では彼は、映画監督のゴダールと同質である。

実際、高橋のデビュー作『さようなら、ギャングたち』は、ゴダールの代表作『気狂いピエロ』を小説で実現したものだった、と後年、高橋自身が述懐している。この二人は創作姿勢が似ている。ゴダールの映画もまた、批評的過ぎて、ほとんどの人には意味が分からない。また彼は批評家出身の映画監督であり、「昔は活字で映画を批評したが、今は映画で映画を批評している」のだと断言している。

ジャン=リュック・ゴダール
映画の映像と音を縦横無尽に切り裂きまくって観客を大いに困惑させる、映画界の切り裂きジャック

なるほど、彼らは「批評家的な作家」である。ではなぜ、批評家こそが最も歴史を語るに適任なのか?

批評家は、受け手が、過去の全ての作品を鑑賞しているという、厳しい前提に立って批評する。つまり「ジャンルの歴史」そのものを想定読者とする。それが批評の足場である。無論、全ての作品を知る人など存在しないが、それでも「究極の受け手」を想定しなければ、批評は骨抜きになる。

優れた批評とは、ジャンルの歴史の中にその作品の位置を見出し、その達成を鋭く評価した上で、「未だ到来しない傑作」が到来する諸条件を予言する行為だからである。(批評家自身が作家の場合、その「未だ到来しなかった傑作」とはこれだ、と自ら提示することになる)

だから高橋もゴダールも、そのメディアの歩んできた歴史というのを非常に細かく分析している。批評家は同時に歴史家であらねばならない。

したがって、高橋源一郎ほど「日本文学史」を語れる論客は稀である。それも彼の場合、批評することがすなわち創作ともなっているので、これ以上ないくらいの「生きた批評」になっている。

高橋源一郎の「生きた批評」

「生きた批評」がどういうものかというと、「文そのものに入りこみ、作品の血液や体温を感じ取りながら語る批評」である。あるいは「あたかもこれから小説を書き始めるために準備されたような批評」ということである。

全体としてこの本で使われている手法は、「文学の時代精神を言語化する」ということだと言っていい。明治で、昭和で、平成で。それぞれの時代で「語られることを待っていた」文学とはどんなものだったのか。読者の潜在的な欲望とはなんだったのか。高橋は、それを緻密に、しかし「大人」でない読者に分かるよう、平易な語り口で説明してるのだ。

たとえば最初に彼が引用するのは、樋口一葉の『にごりえ』である。

おい木村さん信さん寄つてお出よ、お寄りといつたら寄つても宜いではないか、又素通りで二葉やへ行く氣だらう、押かけて行つて引ずつて來るからさう思ひな、ほんとにお湯なら歸りに屹度よつてお呉れよ、嘘つ吐きだから何を言ふか知れやしないと店先に立つて馴染らしき突かけ下駄の男をとらへて小言をいふやうな物の言ひぶり、(…)

樋口一葉『にごりえ』
樋口一葉

この文章を、高橋は、一見読みにくいし、当時としても時代遅れに見えるが、不思議な「リアリズム」を感じる文章だと評する。そしてそこから、樋口一葉とは全く異なる、当時主流の日本の自然主義文学を分析し、それらが21世紀に鮮烈なデビューを飾った綿矢りさなど繋がる、という彼一流の分析を披露する。

彼らは、ある意味で同じことをいっているのです。つまり、読みにくいということ、です。それから、読みにくいが、悪くはない、ということ、です。それからまた、一八九五年に書かれた『にごりえ』には、二十世紀末に書かれた小説に通じるような要素さえ感じるということ、です。いったいそれはどういうことなのでしょうか。

高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』

もし、そこに古びないものがあるとすれば、それは、どの時代にあっても共通するものだからではないでしょうか。

たとえば聴覚です。耳は古びません。触覚、触れた感覚、あるいは視覚、そういったものも古びることはありません。

同上

『にごりえ』は、一見、反時代的でありながら、実はその時代精神に待望されていた「未だ到来しない傑作」だったのである。ただ、あまりに主流から外れた作品だったので、その重大性を誰も的確に言語化できなかった。そして100年の後に、現代作家によって再び、その言語化されていなかった樋口一葉の革新は再生され、リメイクされたというのだ。

ここで他の一般的な「○○史講義」系の書籍と比較した際の特徴は、高橋は、どこまでも文そのもの、コトバそのものに踏み込んで歴史の必然性を探る、ということである。

普通の書籍では、文学の歴史はもっとマクロで、データベース的で、伝記的なものになる。たとえば三島由紀夫の死後に純文学の断絶があって、二人の村上が出てきて……という風な「直線的な縦の流れ」になる。

ところが高橋の分析は、極めてミクロなもので、そのため、分析対象からの引用が異常に多い。しかしこれは彼が原稿料泥棒だからではない(多分)。

さらに、時間の流れに沿ってズラズラと事実を並べるのではなく、樋口一葉から綿矢りさ、あるいは石川啄木から川上未映子、前田司郎へと、時間を縦横無尽に行き来する。そうして時代を隔てた作品の共通点から普遍のものを抽出したり、あるいは相違点から時代の変化を読み取りつつ、それらを丁寧に言語化していく。

こうして「なぜこの文章は、この時代に現れたのか」という、文学の時代精神と、それぞれの作品が出現した必然が解き明かされていく。またこれは解説の穂村弘も述べていることだが、その解き明かす過程が、目の前で講義をする調子で、こうだろうか、こうかもしれない……っと、読者と同じ目線で進んでいくので、とてもわかり易い。

『文学がこんなにわかっていいかしら』などもそうだが、高橋源一郎の文学語りは、ずば抜けて面白い。

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初版:2021/08/05 ―― 改訂: 2021/08/12

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