栗原裕一郎『〈盗作〉の文学史』 / どこまでが剽窃か

2021/01/24 ・ 書籍 ・ By 秋山俊
栗原裕一郎『〈盗作〉の文学史』

文学史における盗作騒動、すなわち「パクリ」を網羅した本である。

私はこの手の本が、単なるゴシップだとは思わない。そもそも「創作」というのは己惚れであって、厳密に言えば創造とは巧みなる剽窃に過ぎないからだ。究極的には日本語自体が他人の創作物なのである。そのことはかつても、林達夫が「いはゆる剽窃」の中で痛烈に指摘していたし、本書の中でも再三議論に上っていることである。「どこまでが剽窃と言えるか」の議論も、本書の見どころの一つと言える。

剽窃と模倣

俳句の「剽窃」が指摘されたときに「剽窃とは小説という若い文化のもので、俳句に剽窃などというものはない」というラディカルな擁護論もあり興味深い。実際、歌の世界ではこのことに関連して、本歌取りの様式が頻繁に引き合いに出される。

清水良典『あらゆる小説は模倣である』の中で、模倣には3タイプが考えられている。

  1. 無知の模倣(知らず知らず似てしまう)
  2. 下手な模倣 (容易に見破られてしまう)
  3. 巧みな模倣 (自分のものにしてしまう)

そして映画監督の押井守によれば、「剽窃を自覚的にやっているなら全て引用」だと言う(『押井守の映画50年50本』より)。ピカソは「芸術家は盗む」と発言している。

非難に対する反応

人の本性は、罪を突きつけられたときに出る。連日TVやYouTubeを騒がせている謝罪動画を見るといい。「罪人」たち(あえてカッコつき)には様々な種類がある。シラを切る者、逆ギレする者、土下座する者、なぜか自分の身体にガソリンを注ぎ続ける者……。

本書には数々の自己弁護や非難が掲載されており、顕になった人間本性が牙をむく。己の剽窃をわびつつも、うっかり、それを指摘した相手をクソ野郎呼ばわりしてしまい、名誉毀損に問われたケースなどもあり微笑ましい。盗作騒動は、当事者以外にとってはコメディである。

小説全編丸パクリ事件

ところで剽窃に関係ないが、本書で紹介されている、白泉社がラノベを募集したときの「応募時のアドバイス」がすごい。

・登場人物の名前はカタカナではなく日本人の名前がいいです。
・舞台も訳の分からない世界ではなくて現代日本がいいです。
・広義とはいえ、一応ミステリーなので、「謎」には「合理的な解決」を。犯人が超能力者だった、というのは避けたほうが無難です。
・学園を舞台にする場合は、「犯人(真犯人)が先生」というオチは、よほどうまくやらないといけません。
・同じく、学園を舞台にする場合は、「学園の七不思議」というネタは避けたほうがいいと思います。
・読者は「感動」を求めています。泣き・泣かせの要素は多分あったほうがいいと思います。
・盗作・パクリおよびそれに類する作品の応募はご容赦ください。

最後の「泣き・泣かせの要素は“多分”あったほうがいいと思います」「盗作しないでください」という投げやりなアドバイスは、恐らく渾身のギャグだろう。

そして実際に、「本文全編丸パクリ」という「文学史上まれな珍事」も本書に紹介されている。しかも「受賞のことば」まで他人のパクリという徹底ぶりである。

当時の記事には次のように書かれている。

全篇が完全盗作なので、どこが似ているとか盗まれているとか、引用のしようもないものだ。

「当選して作品がのったから表面に出たんで、佳作で三万円くらい稼いでいれば商売として成立つわけだ」

なお剽窃を扱った別の本としては『剽窃の弁明』『大作家は盗作家《?》』『日本文化の模倣と創造 オリジナリティとは何か』などがある。

本についての記事一覧

初版:2021/01/24

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