寺山修司『戦後詩』 / 義賊、大いに語る

2021/01/20 ・ 書籍 ・ By 秋山俊
寺山修司『戦後詩』

戦後詩批判の書。体裁上は真面目な本であり、寺山の提起する「直接の詩」という理念など、内容もいいのだが、寺山修司が語ることによって「文学の大泥棒が泥棒行為を嘆く」というユーモラスな書に脱構築されている。

寺山修司という男

寺山修司という作家は、近代においていち早くテクスト論的な見地に自覚的になり、限りなく剽窃に近い引用を繰り返し、晩年にいたるまで手癖のようにそれを行い芸術の域まで高めた文学界の大泥棒、日本のジャン・ジュネであり、ロラン・バルトの理論に先行する実践者である。

寺山は先行詩人の言葉を、徹底して盗んだ。そして自らの文脈に置き換え、ヌケヌケと各雑誌向けに細かく改変し、フォーマットを調整しながら投稿の縦断爆撃を仕掛け、名誉をわしづかみにしたのである。

寺山修司

つまり寺山の前では、「詩の原初の文脈」なんてものには意味がない。成果物こそが全てである。全ては引用物であり、創造物とはコラージュであり、詩人は言葉の編集者に過ぎない。後は受け手がどう受け取るかの問題で、それが詩人の「ナマ」の言葉・体験かは重要ではない。現に寺山は、母親が生きているのに「お母さんが死んだ……」という詩を堂々と発表している。

寺山猛々しい

にも関わらず『戦後詩 ユリシーズの不在』の中で、寺山は腕を組み、嘆きながら語る。

いわく、活版印刷の普及により、詩はもっぱら、機械によって量産された活字のコピーをいつでも読んで味わえるものとなり、詩人が路上で、聴衆と空間や文脈を共有して聴かせるような「直接の詩」ではなくなってしまった――今日の歌手が歌う歌詞の内容は、作詞家が自らの体験を書いたものであり、歌手はその代理人に過ぎず、我々は詩人から「直接の詩」を聴く機会を喪失しているのだ……と。

私は、作者以外の朗読者による「詩の朗読」というものにも、ある種の苛立たしさを覚える。それに成功する場合には、必らず詩人が朗読者に犯されているのであり、聴衆の評価は「いかなる詩か」ということではなくて、「その詩を、いかに盗んだか」「その感情を、いかに偽装したか」ということに限られているからである。

寺山修司『戦後詩』

まさに「あんたが言うな!」である。言葉のコラージュによって、もっとも苛烈に詩を誕生の文脈から引き剥がして連れ回した「コトバの追い剥ぎ」は寺山自身である。剽窃騒動で彼を非難した歌壇人たちは、全員脱力したことであろう。

しかし、このような宿命的虚言癖こそが、まさに寺山ワールドなのだ。

寺山はここで、自覚的かどうかは微妙だが、自らを作品化している(「してしまってる」と言うべきか)。寺山は生涯、「虚実皮膜」「虚と実が裏返る」といったテーマに挑み続けた作家であったが、最も特徴的なのが、虚実を扱う当の作家自身の自伝が嘘だらけだったり、作品が剽窃めいた「引用」に満ちていたことであった。

つまり寺山という男の言は、ハナから信用などできない。常に吹かしている。その言葉は、いつもポジショントークめいている。ところが寺山ワールドにハマると、ここが逆に面白い。なぜなら彼の嘘八百や厚顔無恥は、どこまで行っても「……という虚の演出なんだよ」というアリバイ作りによって肯定されてしまうからだ。

このような寺山節を念頭において『戦後詩』のこの箇所を読めば、本書は真面目な詩論であると同時に、寺山ワールドも堪能できる一石二鳥の本なのだ。

寺山修司『戦後詩』

余談ながら、上記のような語りを踏まえて、寺山は「書を捨て、町へ出」ることによって、詩人の「直接の詩」を聴きたい、という想いを書いている。ここで引用されたアンドレ・ジッドの言葉が、後に彼のいくつもの代表作でタイトル『書を捨てよ、町へ出よう』として使用されているのである。

また本書の最大の功績は、藤森安和の『15才の異常者』(絶版)という特異な詩を全文引用して広めたことである、という説も唱えておきたい。「公衆便所の落書を思想にまで高めようとする悲しい企み」とは卓抜なレトリックである。

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投稿: 2021/01/20 ― 更新: 2021/01/24
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