
いわゆる「ホームページ」時代のWeb日記を書籍化したもの。オリジナルの日記は現在でも保存されており、ネットで読める。
この本の特徴は
- 著者が自殺して日記が終了している
- 著者が一般人である
- 著者がかなりヘビーな多読家である
という3点であり、特に「3」に関して、著者の二階堂奥歯は「生まれてから今まで生きてきた日数を、はるかに超える量の本を読んでいる」とのことで、「重度の多読家による読書日記」としての側面が強い。

日記文学と本語りの融合
有り体に言えば個人のWeb日記なのだが、私は面白く読める。それはおそらく、私自身が読書そのものや、本を引用する手法に強い関心を抱いており、またWeb日記を一つの文学的形態として個人的に研究しているからだろう。著者は「引用がもたらす機能」に非常に自覚的に見える。
日記の多くは本の引用と、引用に関連した著者の近況や思考によって構成されており、「本について語ること」と「日記文学」を融合したものだと見なすことができる。日記そのものは、他愛ない、まさに「他人の日常」そのものの日記もあるが、その中には本についてのきらびやかな感性が光る、真珠のような言葉も含まれる。
私が最も気に入った日付の日記を引用しよう。前半が本からの引用、後半が彼女の文章である。
2002年10月2日(水)その1
二階堂奥歯『八本脚の蝶』
「あなたが現実にその通りになりたかったのでしたら、もっとうまく力を使わないと」
「力ってなにさ」
「言葉の力というべきものです。それに妄想ばかりに先走らせて、想像が追いつかないのもあなたに力が足りないからですよ」
(中略)
「ちぇっ、おかしいなあ。メイドとか女家庭教師はもう心底から淫乱で、いつも発情していて、男とあれば手ぐすね引いて待っている吸精の毒婦のはずなんだけどなあ」
「何度も申し上げますが、そういう妄想的シチュエーションを望むのならそれ相応の力が必要なのです。あなたにはまだ基本的に力が分かっていないし、足りないみたいですね」
「ひどいな、妄想なんかじゃないって」
「力が伴っていれば妄想は妄想でなくなります。現実ともなるのです。今のあなたには無理」
(酒見賢一『語り手の事情』文藝春秋 1998.3)
私を従えることができるのは、私が従う人だけ。
私が従うのは、私を従えることができる人だけ。
(世界に対する説得力。)
私を読んで。
新しい視点で、今までになかった解釈で。
誰も気がつかなかった隠喩を見つけて。
行間を読んで。読み込んで。
文脈を変えれば同じ言葉も違う意味になる。
解釈して、読みとって。
そして教えて、あなたの読みを。
その読みが説得力を持つならば、私はそのような物語でありましょう。
そうです、あなたの存在で私を説得して。

二階堂奥歯自殺の理由、あるいは書物の毒
他方、この日記は「自殺者の日記」としても読まれる。なぜ死んだのか。最後まで読んでも、核心は第三者には分からない。日記の中盤まではそこまで病んだ気配はないのだが、彼女は十代にして様々な絶望を抱えていたのは確かなようである。
彼女の人生観が顕れているのは、たとえば以下の記述。
私が黒百合姉妹を知ったのは16歳の頃だ。その頃私は生きているのがおそろしかった。そして決心した。私は決して子供を産まない。私が耐えかねている「生」を他の誰かに与えることなど決してしない。
二階堂奥歯『八本脚の蝶』
なぜ死ななければならなかったのかは判然としないが、こうは言える。
本には致死量がある。人は、危険な季節に、読むべきでない本を読みすぎると死ぬ。
吉本隆明も『真贋』などで述べているが、文学には毒がある。この毒は薬であると同時に毒でもある。そしてまだ十分に毒を受け容れるだけの体力のない、多感な時期に読み過ぎると致死量を超える。
「読むと心が健やかになるような気がする本」というのは、単なるエンタメか、活字ポルノに過ぎない。毒にもならない本は薬にもなれず、せいぜい石鹸で手を洗うくらいのインパクトしか人生にもたらさない。
生前の三島由紀夫が語ったように、本物の文学とは、「人間は救われないということを丹念にしつこく教えてくれ」、「一番おそろしい崖っぷちへ連れていってくれて、そこで置きざりにしてくれる」ものなのである。
しかしほんとうの文学とはこういうものではない。私が文弱の徒に最も警戒を与えたいと思うのは、ほんとうの文学の与える危険である。ほんとうの文学は、人間というものがいかにおそろしい宿命に満ちたものであるかを、何ら歯に衣着せずにズバズバと見せてくれる。[…]そして文学はよいものであればあるほど人間は救われないということを丹念にしつこく教えてくれるのである。そして、もしその中に人生の目標を求めようとすれば、もう一つ先には宗教があるに違いないのに、その宗教の領域まで橋渡しをしてくれないで、一番おそろしい崖っぷちへ連れていってくれて、そこで置きざりにしてくれるのが「よい文学」である。
三島由紀夫
「文弱の徒について」『若きサムライのための精神講話』
『八本脚の蝶』を読むことによって、気持ちが死へと傾く人もいるだろう。それこそが書物の毒なのである。
死による特権化
二階堂奥歯は一人の編集者に過ぎなかった。彼女の死後、その個人的な日記は書籍化され、多くの人に共有された。なぜか?死んだからだ。それは彼女が生前にいみじくも説明している。
失われたそれは、失われたというまさにそのことによって特権化された(それの意図に反して)。それは、求めても得られないがゆえに、いつまでも求め続けることが可能な存在になった。たどり着くことの出来ないその名のもとに、過去形という形でしか存在できない、幻の「失われた楽園」が現在において創造される。失われたものは特権的ななにかではない。その価値は、「失われた」というその一点にあるのだ。明らかに。
『八本脚の蝶』
それはわかっている。
私はこの本を好む。しかし本書の周辺で、物語化された彼女の死という現象を、大仰な口調で語り回し、過度にセンセーショナルに騒ぎ立て、神秘化するような人たちが好きではない。なんだか軽薄な気さえする(当事者ならともかく)。
これは一人の読書好きの女性の日記である。その最期は悲劇であり、またその投身を決心した際の投稿は実に痛ましいが、それは彼女の、人生に対する個人的な結論であり、彼女自身の決断であり、その意味において、必ずしも絶望的なものではない。
最後のお知らせ
『八本脚の蝶』
二階堂奥歯は、2003年4月26日、まだ朝が来る前に、自分の意志に基づき飛び降り自殺しました。このお知らせも私二階堂奥歯が書いています。これまでご覧くださってありがとうございました。