手塚治虫『ぼくはマンガ家』/ 手塚治虫とは何者だったのか

2020/12/28 ・ 書籍 ・ By 秋山俊
手塚治虫『ぼくはマンガ家』立東舎

手塚治虫が自ら執筆した、唯一の自伝(活字)である。多忙なマンガ家の自伝というのは、表向きのクレジットとは違って、実際の書き手は本人ではないことが多いが、手塚の性格を考えると全てを自分でやりたがったはずであり、おそらくこれも実際に彼が書いたのではないか。

手塚治虫から見た昭和マンガ史

自伝と書いたが、これは当時のマンガ家風景そのものを一冊の収めた、ある種の「群像劇」であり「手塚から見た昭和マンガ史」である。手塚以外のマンガ家の話がかなり多い。寺田ヒロオなどの当時のトキワ荘のメンバーを始め、時間の中で忘れ去られたマンガ家たちの詳細なエピソードもたくさん出てくる。部分によっては、手塚以外のマンガ家が上京した話から延々と何ページもその人物の来歴が語られているほどである。

つまりこれは手塚治虫の活字版『まんが道』なのである。読んでいると、あたかも、昭和の東京をせかせかと動き回る、手塚を中心としたマンガ家たちが目に浮かんでくるかのようだ。手塚のマンガに触発され、全国から集まってくる意気衝天の若手作家たち。激動の時代。

手塚治虫

本書の執筆は藤子不二雄Aの『まんが道』より大分先行するので、彼も大いに影響を受けたことだろう。実際、本書は『まんが道』以前の手塚少年時代からトキワ荘までも丁寧に書いているため、本書からそのまま『まんが道』に接続すると、当時の状況がより鮮明になる。

手塚治虫とは何者だったのか

私は、手塚というのは「強烈な万能願望に取り憑かれた、教養型の芸術超人」だと思っている。

とにかくマンガについて全てを知っていなければ気がすまず、引き受けられるあらゆる仕事を全て引き受け、周囲に迷惑をかけまくり、強烈なライバルが現れればそれが弟分であっても激烈な嫉妬に駆られ、「世界初」を連呼してアニメに傾倒して借金を背負い……そして編集者に未完成原稿を勝手に掲載されれば、人前で涙を流して悔しがる男、手塚治虫。

手塚治虫

彼のエピソードとして特に強烈なのは、(この本に書かれているわけではないが)石ノ森章太郎や水木しげる、劇画家たちに嫉妬し「あんなものは僕でも描ける」「あれは漫画じゃない」と切り捨てたエピソード。その中でも、石ノ森章太郎は尊敬する手塚に暴言を吐かれたショックで筆を折りかけ、手塚が慌てて謝罪したという話があった。

手塚は別に、人格が歪んでいるわけではない。ただあまりにも強いプライドや嫉妬心を、ときに上手く制御できないだけであり、それは彼の創造力やバイタリティの裏返しなのだろう。漫画家として頂点に立つ(立っている)という絶対の自負があるからこそ、あれほどの成果を残せたのだ。

『ぼくはマンガ家』

福井英一への嫉妬と死別

私は本書の中で、漫画家・福井英一への複雑な心境を正直に告白した手塚の筆に最も衝撃を受け、同時に彼の誠意を見た。

一時期は「手塚を超えた」と言われるほどの破竹の勢いで手塚を脅かしていた『イガグリくん』の作者、福井英一だが、手塚は子供向けの『漫画教室』の中で、「ダメな例」として無意識に、ライバル視していた福井作品を槍玉に挙げてしまっており、そのことで福井に詰め寄られたというのだ。

ぼくの心は、卑屈に弁解の余地を捜した。正直なところ、そのころのぼくは、福井氏の筆勢を羨んでいたのだった。それが無意識に「イガグリくん」的漫画に対する中傷として、「漫画教室」という作品ににじみ出てしまったのだ。いわれてみるとたしかに思い当たり、言い訳のしようがない。

手塚治虫『ぼくはマンガ家』
以下同様
福井英一『イガグリくん』

そして福井英一は、あまりにも多忙過ぎたため、カンヅメ仕事の最中に激しい頭痛を訴え、そのまま亡くなってしまう。「もはや手塚を超えた」という絶頂の中で。

そのことに対する手塚の心境吐露が、まったく赤裸々なのだ。

福井氏が死ぬとは。人気絶頂というときに……惜しい奴を惜しいときになくしたもんだー
だが、その人の死を悲しもうという心境は、どろどろした暗黒の思惑によってしだいにけがされていった。
――ああ、ホッとした
なんという情けないおれだろう、と、つくづく嫌になった。だが、はっきりいって、これでもう骨身をけずる競争はなくなったのだ、という安堵感を覚えたというのが本音であった。

今の時代、福井英一を知っている人間はほとんどいないと思う。ネット通販で検索しても、絶版になった『イガグリくん』と、それについた少数のレビューが読めるだけだ。一時は手塚を猛烈に嫉妬させた男の名は、後世にはほとんど伝わらなかった。名を残すか残さないかは、ほんのちょっとのキッカケで変わってしまうし、それは紙一重だ。

本の最後の方に、『2001年宇宙の旅』製作のために手塚へ手紙を出していたスタンリー・キューブリックの手紙が掲載されていて興味深い。

手塚治虫の言葉

関西のマンガ家の限界について

ただ残念なことに、関西の漫画家には、一つの限界があった。というのは、われとわが身の足をひっぱるような結果たどってしまうのである。本来、漫画の目的の一つに権力への風刺と警告がある。ところが、関西の権力とは政治的権力ではなく企業的権威なのである。まあ、平たくいえば、松下幸之助氏を漫画で茶化すといったふうに だが、それではおもしろいはずがなく、やはり永田町や政界を痛烈に皮肉るほうが本命なのだが、それは東京の連中にまかせてしまおう、どうせおれ達は地方人なのだからというムードがあって、あるところまでくると、自分の守備範囲をきめて固まってしまう。

マンガ表現の限界の拡張

ぼくは、従来の漫画の形式に限界を感じていて、ことに構図の上に大きな不満をもっていた。構図の可能性をもっとひろげれば、物語性も強められ、情緒も出るだろうにと、まえまえから考えていた。従来の漫画は、「のらくろ」にしてもなんにしても、だいたい平面図的な視点で、舞台劇的に描かれたものがほとんどだった。ステージの上で、上手下手から役者が出てきてやりとりするのを、客席の目から見た構図であった。これでは、迫力も心理的描写も生みだせないと悟ったので、映画的手法を構図に採りいれることにした。そのお手本は、学生時代に見たドイツ映画やフランス映画であった。

医者について

信頼感のほうをかちとるために、医者は、いろいろと暗示行為を行なう。タバコを喫うのも一つの手だ。患者を診ても、病名がよくわからないときなど、まず一服といって、おもむろにタバコをふかす。これで少なくとも二、三分は、病名をあれやこれや考えるゆとりができる。

芸術を面白くするもの

おもしろいことに、映画を含めて、今世紀の芸術作品といわれるものは、たいてい圧制や迫害の中からレジスタンスとして生まれてくる。ピカソの「ゲルニカ」などがその一例である。映画においても、ルネ・クレマンの「鉄路の闘い」、マルセル・カルネの「天井棧敷の人々」、「アルジェの戦い」などはそれである。そして、それらの作家は、いったん平和をかち得て、太平の中に身を委ねると、とたんにくだらない無性格な駄作に堕ちていく。最近のカルネやクレマンのつまらなさ! ぼくは、「七人の侍」から「生きる」「生きものの記録」に至る黒澤作品は珠玉の名作だと思っているが、そのあとのものは、興行的にはヒットしたにもかかわらず、まるっきりついていけない。内容が無意味で、安易だからだ。

青年誌は子供マンガの延長

青年漫画は独自に確立されたのではなく、戦後、子供漫画で育った子供がハイティーンになって、当然、すこしむずかしい漫画を要求しだし、描き手もおなじ立場で描きだしたのであって、本質的には子供漫画の延長だと思う。なんだか子供漫画だと低級だといっていやがる描き手もあるらしい。

マンガ映画は独裁でなければ作れない

だいたい、漫画映画というものはワンマンシステムでないと作れない。各スタッフが、思い思いに勝手気儘な冒険をしていては、闇汁のような代物ができてしまうので、統率者は徹底した独裁制をしかなければならないのである。ここに動画のもっている宿命がある。つまり、たったひとりでコツコツやるか、ワンマン体制の企業体にするかである。

文化が発達しなければマンガは受け入れられない

漫画の持つユーモアが、果たして戦前戦中の日本で、どのくらい大衆にアピールしたか? 果たして農村や漁村や僻地で、漫画がいかに浸透し、いかにかれらの情緒を豊かにしたか? すべて疑問である。
事実、地方へ行くと、お笑いより泣きのほうに大衆は強い魅力を感じる。母ちの映画や、浪曲の人情噺に涙を流し、「ああ、よかった」という。かれらの娯楽は泣くことである。農村の女性に訊いてみると、「そら、あんさん、笑うこた、いつだってでけるじゃろけ」と答える。彼女達は、卑近な笑いを捜すのにことかかない。それはほとんどセックス談義から始まり、近所の噂話、失敗談とつづき、セックスに終るのである。それらの笑いは、原始的で、反射的であり、ユーモアではない。漫画の持つ笑いは、ユーモア精神に基づくもののはずである。ロンドン動物園の調査によれば、猿のある種は、十七種類の笑いに似た喜びを表現するという。人間はすくなくとも――政治家でさえ ーその十倍はいろんな笑いを知っているだろう。だが、漫画の含む笑いの要素は、その中の、いちばん高級なやつでなければならない。猿の笑いと一緒くたでは困る。

マンガ家と世間の評価

なにごとも、見た目の体裁がかんじんなのだ。かりに、だだっぴろい空部屋に、超特大の中身のないテレビと、鳴らないピアノとを据え、目のとどかぬ高さに五百号のモジリアニの模造品を掲げ、ふだんは水を飲んでいても、客のときには香り高いリプトン紅茶を出し、色のついたただの水を入れた洋酒ビンを並べ、カバーだけの全集が並んだ大型本棚を設けて、三十年暮らしても、東京ではそのまま充分名士として通用するであろう。そういう名士が現在はすこぶる多く、また、それでなければ通用しない名士がすこぶるつきに多いのである。

アトムの「失敗」

ぼくが、「アトム」の売りに失敗したというのはこれである。「アトム」は好評でなければよかったのだ。「アトム」がそれほど話題にならなければ、類似作品も作られなかっだろう。「アトム」が儲るとわかると、スポンサーはどんなに大金を積んでも、どこかにテレビ漫画を作らせようとめっきになった。アニメーターたちの引きれき合戦が始まり、アニメーターの報酬は、うなぎ上りにあがった。 高校を出たか出ないかの若いものが、月々十何万もサラリーを稼ぎ、マイカーを乗りまわすといった、狂った状態になった。

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投稿: 2020/12/28 ― 更新: 2021/01/01
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